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25年刻みで整理する、戦後日本と2020年代の問い

2020年代も後半にさしかかり、私たちは今、何を問うべきなのか、最近よく考えています。

その問いの1つが最近よく記事として書いている『思想』です。思想の方向性は事業の土台となり、今後の事業やスタートアップの在り方に大きく影響すると考えているからです(これについては別記事参照)。

思想を、

  • 認識の地図
  • 評価の基準のものさし
  • 実践の指針としての進路

の三つで捉える整理をしたとき(Mullinsのイデオロギーの定義を参考にしています)、1番目に挙げた「認識の地図」の構成要素には「過去・現在・未来の認識」が含まれると言われています。つまり、これからの思想を考える上では、未来を考えるのと同時に、これまでの歴史を捉え直す作業も欠かせません。

そして最近、戦後を振り返る書籍が多く発刊されつつあり、そうした歴史の見取り図を引こうという作業が方々で行われているように思います。そんな中で、専門家ではない自分が歴史を大まかに見るのは少し気が引けるところもありますが、資本や事業にかかわる今後の思想を考えていく上で、ここ数十年の歴史について、ビジネスに役立つ形でざっくりとした見取り図を描く作業もあってもよいのでは、と思うようになりました。

そこで一つの試みとして、ここでは戦後を1945–1970年、1970–1995年、1995–2020年、2020–2045年と25年ずつに区切り、四半世紀ごとの変化を整理してみたいと思います。そうすることで、これからの2020–2045年の輪郭が見えやすくなるのではないか、というのがその背景の意図です。

これから詳しく話していきますが、それぞれの時代が直面した課題や、そこから生じた問い、そしてその主な引き受け手を振り返ると、大まかには次のような流れをたどってきたように思われます。

  • 1945年の終戦後には、どのような国家や社会をつくり直すかという問いを、国家と企業が中心となって引き受けました。
  • 1970年ごろからは、豊かになった社会でどのような暮らしを築くかという問いを、家族や地域、組合などの身近な集団が引き受けました。
  • 1995年以降は、所属する組織による保障が揺らぐなかで、自分はどう生き、働き、支え合うかという問いを、主に個人が引き受けるようになりました。同時に、個人が自ら事業や活動を立ち上げ、組織をつくる自由も広がっていきました。ただし、雇用や資本配分を決める力は個人ではなく、企業と国境を越える資本の側に集まっていきました。

そして2020年代以降は、感染症や安全保障、脱炭素、そして人口減少など、「個人や個別の組織では引き受けきれない規模の問い」が、改めて前面に出てきていると感じています。

そうした問いに向き合うには、集団としての意思と力が必要です。しかし、後述するように、この数十年をかけて、問いの引き受け手は徐々に個人へと移行してきたように思います。そこから再び一気に国家のような集団へ権力をまとめようとすると強い反発を生みかねませんし、また安易に権力の集中を進めれば、国家を中心とした全体主義的な統制に傾く危険も否定できません。特に昨今はテクノロジーの進展により、過去に比べて国家等の強権を持つ主体による統制がしやすくなっているという面もあり、そのリスクは増しています。

そして一方で、国境を越えて影響力を持つ民間プラットフォーム企業が台頭するなかでは、国家に権能を集めたところで解決できるとは限らないという面もあります。そうした意味でも、過去に戻ることとは異なる形で、今からの在り方を考えていかなけらばならないのだろう、と感じています。

その意味で、個人の自由を保ちながら、大きな問いを共同で引き受ける仕組みをどう形成していくかが、いま私たちが直面している課題なのではないかと考えています。

25年単位で補助線を引いて比較する問いと引き受け方

ここからは、終戦の年である1945年を起点として、四半世紀(25年)ごとの補助線を引きながら時代を振り返っていきます。

25年という区切りはあくまで一つの補助線にすぎませんが、この単位を選んだのにはいくつかの理由があります。

  • 100年という時間を思想の視点から捉え直す際、10年単位では細かすぎ、50年では大まかすぎるため、20〜25年程度の間隔で眺めたほうが現在への見通しを立てやすいこと
  • 大阪万博が開催された「1970年」という象徴的な節目があること(以前の「思想と資本」シリーズでも1970年を一つの区切りとして扱いました)
  • 阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件が起きた「1995年」という大きな転換点があること(辻田真佐憲氏も1990年代を区切りとし、とりわけ1995年ではないかと論じられています)
  • 新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大が始まった「2020年」という明確な断絶があること
  • 次の「2045年」がちょうど戦後100年の節目にあたること

もちろん、石油危機など他の出来事を契機として区切ることも可能ですが、全体の構造を把握しやすくするためにこの四半世紀区分を採用しています。その上で、各期間における「本稿で注目する問い」と「その主な引き受け手」を整理すると、次のような対応関係になります。

時期本稿で注目する問い主な引き受け手
1945–1970年戦後の日本を、どのような国や社会につくり直すか国家・企業
1970–1995年豊かになった社会で、どのような暮らしを築くか家族・地域・組合
1995–2020年自分はどう生き、働き、支え合っていくか個人
2020–2045年(推測)個人の自由を保ちながら、誰と何を、どう共同で引き受けるか問い直される「私たち」(連携する共同の主体)

ここからは三つの道筋で時代を見ていきたいと思います。まず国内を1945年から現在まで進み、次に1945年から1870年まで遡って戦後の長さを相対化し、最後に1870年から世界の側で現在まで時間を進めます。

国家と企業が再建と成長を担った1945–1970年

1945年8月に日本は終戦を迎えました。終戦直後の日本が直面した課題は、生活や産業の復旧にとどまらず、国家の制度そのものを組み直すことでした。連合国軍による占領のもとで日本国憲法の制定や民法改正が進み、統治の仕組みや家族に関わる諸制度が大きく刷新されます。「これからの国や社会をどうつくり直していくか」という課題が、切実な問いとして人々の目の前にありました。

政府は占領当局と折衝しながら制度を整え、企業は生産と雇用の回復を急ぎ、さらに朝鮮戦争による特需などを契機として、日本は安全保障の多くを米国に委ねつつ経済発展に資源を集中させ、企業も急速な成長を遂げていきます。

その成長の過程では、労働組合や社会運動が活発化し、権利の確立や成果の公平な分配を求める強い動きも見られました。しかし、社会を動かす力の実質的な中心にあったのは、やはり国家と企業だったと考えられます。両者は政策や方針をすり合わせながら、その実行に必要な資金や組織を動かす主役として機能していました。

特に企業は、人々が働いて所得を得る場であると同時に、豊かな生活に必要な物資を供給する中心的な担い手でもありました。高度経済成長期には家電製品や自動車が急速に普及し、日々の生活様式も一変したほか、生産や雇用の拡大を牽引する企業の活動を通じて、国全体の経済成長が一人ひとりの働き方や家庭の暮らしと直接に結びついていた時代だったと言えます。

あわせて、生活を支える社会保障の網も広がっていきました。1961年には国民皆保険・皆年金が実現し、雇用者だけでなく自営業者や農業従事者も含めて、公的な医療保険や年金に加入する体制が整います。病気や老後のリスクに備える仕組みを国が設計し、国民が保険料を拠出して支え合う構造は、生活を安定させる強固な柱となりました。企業からの勤労所得と公的な社会保障制度が両輪となることで、家族の生活を支える基盤が確立されたのがこの時代です。

とはいえ、そうした成長と分配の恩恵から取り残された人々も少なくありませんでした。深刻な公害に苦しむ地域が生じ、安定した正規雇用の枠外に置かれた層も存在していました。家庭内では、家事や育児・介護といったケア労働の多くを女性が無償で担い、外での経済活動への参加が制約されていました。また、1972年まで米国の施政権下におかれていた沖縄のように、この時期の「私たち」の枠組みから構造的に外側に置かれていた地域や人々もいました。

このうち家庭内の性別分業は、この時期には解決すべき問題としてより、企業が男性の長時間労働を前提に成長し、その男性を家庭が支えるという成長モデルの前提として扱われていたように思います。負担は課されていながら、それが負担として数え上げられず、国家と企業が引き受けた「国や社会をどうつくり直すか」という問いの外側に置かれていたのです。

所得が向上し物質的な豊かさが実現した一方で、公害問題やケア負担の偏りといった歪みが蓄積していったのが、この最初の四半世紀でした。そのため社会の関心は次第に、「手にした豊かさをどのような暮らしに結実させるか」という、家族や地域といった身近な集団における問いへと移っていくことになります。

暮らしの要求と選択が広がった1970–1995年

1970年ごろからの四半世紀では、企業の雇用と国の社会保障に支えられた暮らしを前提としながら、人々が何を求め、生活の質をどう高めようとするのか、その力点が大きく変化していきました。

人々の豊かさに対する意識に顕著な変化が現れたのもこの時期です。厚生労働白書が引く内閣府の世論調査を振り返ると、1970年代に入って「物質的な豊かさ」を重んじる回答と「心の豊かさやゆとり」を重視する回答が拮抗し始め、70年代後半には後者が前者を上回るようになります。生活の質的な充実を求める動きの背景には、何を豊かさと見なすかという価値観自体の転換があったと考えられます。

そして、この時代に暮らしの基本単位となったのが「家族」でした。住まいの選択や家計の使途、子どもの教育や老後の生活設計に向き合う中心は家族でした。家族はその中で誰が働き、誰が育児や介護を担うかを配分・調整しながら、望ましい暮らしを具体化しようとしました。生活上の多様な選択やケアの責任といった問いを日常的に引き受けていたのは、まさにこの家族という単位であり、特に1960年代に急増した核家族だったと言えます。

しかし、公害による健康被害や生活環境の悪化、賃金や労働時間、食品の安全性といった問題は、個別の家族の努力だけで解決できるものではありません。こうした共通の生活課題に対しては、住民組織や地域コミュニティ、労働組合、生活協同組合などの多様な中間集団が結成され、行政や企業に対して環境改善や制度拡充を求めていきました。

単独の個人ではなく、まず家族という親密圏があり、さらにその家族と国家との間を媒介する中間的な集団が活発に機能していたのが、この時代の特徴でした。

もっとも、こうした家族や集団は人々を守るセーフティネットとなった一方で、その内部の役割分担には前の時代とは別の問題が現れました。前の四半世紀に成長モデルの前提として定着した、男性の終身雇用と女性の無償のケア労働という世帯モデルが、今度は家族が暮らしの問いを引き受けるときの初期条件になったのです。住まいや教育、老いた親の介護といった問いを家族が引き受けるほど、その負担は家庭内の女性に集中しました。しかも、何を選び誰が担うかを決める力は世帯内で対等ではなく、負担を担う側が決定に関与しにくいという構造が、家族という単位の内側に再現されていたと考えています。

同時にこの時期には、この役割分担そのものが争点になります。女性の社会進出や男女平等を求める運動が広がり、雇用の平等が制度の課題になる一方で、専業主婦世帯を前提とした税や年金の仕組みも整えられていきました。家族は問いを引き受ける主体であると同時に、その内部の配分が問い直される場でもあったのです。

また、地域コミュニティの同調圧力やわずらわしさに息苦しさを感じる個人も少なくありませんでしたし、企業の正社員雇用や標準的な家族の枠組みから外れた人々に対する包摂の不十分さも依然として大きな課題でした。

こうした抑圧や不平等を解消しようとする社会運動や制度改革の試行錯誤を経て、問いを引き受ける単位は、徐々に集団から個人へとシフトしていくことになります。

個人の選択と負担が問われた1995–2020年

1990年代に入り、バブル経済の崩壊を経てグローバリゼーションとリベラリズムが浸透するなかで、さまざまな課題や問いを引き受ける単位は、組織や集団から個人へと本格的に移行していきました。

個人の自律的な選択と自己責任を重んじる潮流は、当時の政策方針にも明確に示されています。1999年の経済企画庁による「経済社会のあるべき姿と経済新生の政策方針」では、個人の自由と自己責任を行動原理の基本に据え、多様な職業選択や挑戦を後押しする環境整備が提唱されました。一人ひとりが自らの意思で進路を切り拓くことが促され、その自由な選択を支えるための制度的基盤が模索されていたと言えるでしょう。

同時に、個人が主体となって活動を起こすための道具や環境も大きく広がりました。インターネットの普及によって個人が世界に向けて直接発信し、志を同じくする協力者や顧客を見つけ、大組織に属さずとも事業を立ち上げることが可能になりました。また非営利の領域においても、1995年の阪神・淡路大震災における広範なボランティア活動の高まりを契機として、1998年に特定非営利活動促進法(NPO法)が制定・施行され、市民が自発的に社会課題の解決に取り組む新たな回路が開かれました。

この四半世紀において個人は、家族や地域、企業といった既存の共同体の拘束から解放され、生活や雇用の選択を自ら引き受けることを求められる存在になりました。その反面、新しい仕事や支え合いの仕組みを自律的に生み出していく主体としての自由を獲得したとも言えます。自ら問いを立て、仲間を募り、必要に応じて自前の組織を立ち上げるという引き受け方です。従来の固定的な役割に馴染めなかった人々にとっても、自らの可能性を切り拓くための技術や制度的基盤が整っていきました。

この時代の後半、とりわけ2010年代に活発化したスタートアップや起業、あるいはSNS等で目立つ個人インフルエンサーといった現象も、個人を起点として問いを引き受けるための代表的な装置として機能したと考えています。

ただし、問いの引き受け手が個人へ移ったにも関わらず、力の所在が個人へ移ったかというと、そうではない面も多くありました。この四半世紀に雇用の形や資本の配分を実際に決めていたのは、個人ではなく企業と、国境を越える資本でした。

1999年の労働者派遣法改正で派遣の対象業務は原則自由化され、2004年には製造業への派遣も解禁されます。非正規雇用の比率は1990年の約2割から2019年には4割近くに達し、雇用の変動リスクは個人の側へと移されました。同じ時期に企業の内部留保は積み上がり、2015年のコーポレートガバナンス・コード以降は、労働者ではなく、株主への還元が重視されるようになります。個人の自己責任という規範は、資本と労働の移動可能性を高めるために要請された規範でもあったように思います。

一方で、日本企業そのものは、1945–1970年に担っていた引き受け手の役割から降りていきました。バブルの後始末等を行いながら、並行して電機や半導体で国際的な地位を失い、終身雇用と企業内福祉を縮小するなかで、企業は雇用と生活保障を引き受け、その対価として社会的な正統性を持つ存在ではなくなっていきます。その空白を埋めたのが、海外の投資家や格付け機関といった国境を越える資本と、個人自身でした。

個人のエンパワーメントを支えた道具もまた、多くは海外のプラットフォームでした。個人が世界に発信できたのはGoogleやFacebookの上であり、スタートアップはベンチャーキャピタルの資本の上で、個人の商売もプラットフォームが用意した市場の上で成り立つようになっていきます。個人の自由の基盤を供給していたのは国境を越える企業であり、その基盤の利用条件を決めていたのも彼らでした。

そしてそうしたプラットフォームを持つ起業家やVCという個人が力を持つようになり、富と名声、そして権力を集めていくことになります。

総じて2020年までの四半世紀は、日本企業が長期雇用等による実質的な社会保障の担い手だったところから退き、個人のエンパワーメントが大きく前進した時代でした。しかしその一方で、構造的な格差やセーフティネットの不備が「自己責任」の名のもとに個人の努力不足へと転嫁され、個人間の過酷な競争が起こり、自己責任や能力主義の規範を個々人が内面化していった時代でもあったと言えます。

供給と調整の課題が重なる2020年代

2020年代を迎えると、社会が直面する課題や問いの質が大きく変容してきました。

2020年に始まった新型コロナウイルスの世界的な流行では、医療サービスの供給能力そのものと、逼迫する資源をいかに配分するかという調整能力の双方が厳しく試されました。また、2010年代後半から先鋭化してきた米中の地政学的対立は、個々の企業の努力で対処できる範囲をはるかに超えた国家規模での対応を迫っています。さらに2022年のロシアによるウクライナ侵攻を契機として、エネルギーや食料、半導体をはじめとする重要物資のサプライチェーン確保が、国家の安全保障に直結する死活問題として再認識されるようになりました。

加えて脱炭素社会への移行には、社会インフラ全体の抜本的な再構築と、数十年におよぶ巨額の長期投資が必要になります。しかもその需要側はグローバル市場であり、国内の判断だけで完結しません。国内に目を向けても、急激な人口減少と少子高齢化が進むなかで、様々な構造的課題に直面しています。たとえば医療や介護の担い手をいかに維持するのか、社会のインフラや居住地域をどのように計画的に縮退・再編させていくのか、そしてその過程で生じる過重な負担を誰がどのように分担するのか、といった課題です。

もちろん、感染症の脅威や戦争、地球環境の危機、あるいは人口動態やインフラの老朽化といった問題は、2020年を境に突如として生じたわけではありません。しかし、これらの難題が複合的に重なり合うなかで、「個人の自由な活動を支えているはずの供給基盤や社会制度、そして秩序そのものを、一体誰が維持し、支え続けるのか」という問いが、改めて社会の前面に浮上してきたと捉えられます。

歴史に厳密な25年周期が存在するわけではありませんが、こうして四半世紀の歩みとして振り返ってみると、いま私たちが立っているのは、まさに問いの次元そのものが根本から転換しつつある過渡期なのではないかと感じられます。

そしてここまでの内容だけを見て事業を考えると、「国家と同一化した事業構築やスタートアップをしていくことが、今後儲けるための近道では」と思われるかもしれません。そうした結論に飛びつく前に、もう少し引いて歴史を見てみたいと思います。

戦後を相対化するために1945年から1870年へ遡る

ここまで1945年から2020年代までの歩みを、問いの引き受け手が国家や企業から家族や地域へ、そして個人へと移っていく過程として見てきました。この節では一度視点を切り替え、1945年から25年ずつ時計の針を巻き戻して1870年まで遡ってみたいと思います。目的は、戦後の75年という時間を、その手前にある同じ長さの75年と並べることで相対化することです。遡る際にも、その時代の問いを誰が引き受けていたのかという、同じ視点を使います。

まず起点となる1945年時点では、生産、資金、労働力、言論のすべてが国家総動員法(1938年)のもとで戦争遂行に組み込まれていました。問いを引き受けていたのは国家であり、国民は動員される担い手として、負担だけを引き受けていた状態です。

その一つ手前にあたる1920–1945年は、国民が引き受け手の側に加わりかけた直後に、引き受け手が再び国家へと固定されていった四半世紀でした。1925年の男子普通選挙法によって納税要件が撤廃され、有権者の数は約4倍に急増します。しかし同じ1925年には治安維持法が制定され、国家のあり方そのものを問う議論は言論の枠外へと追いやられました。女性の参政権も認められないままです。さらに1932年の五・一五事件によって政党政治の慣例が崩壊し、決定の重心は軍部や官僚機構へと移っていきます。普通選挙の実現からわずか10年余りで、国民は問いの引き受け手ではなく、国家が引き受けた問いへの動員の対象へと戻されていったのです。

さらに一つ手前の1895–1920年は、負担を担った人々が、自らも引き受け手になることを求めて立ち上がった四半世紀でした。1895年に終結する日清戦争、1904年から始まる日露戦争、そして1914年の第一次世界大戦を支える戦費と兵力は、増税や徴兵として国民に広く課されました。その意味で、1905年の日比谷焼打事件は戦争の負担に耐えた国民が講和条約に納得しなかったことへの抗議であり、1918年の米騒動は戦時インフレによる生活困窮に対する異議申し立てでした。この米騒動を契機として本格的な政党内閣が誕生し、普通選挙を求める運動が全国的な高まりを見せることで、1925年の普通選挙の実現へとつながっていくと見ることができます。

そしてもう一つ手前の1870–1895年は、明治維新(1868年)の直後に近代国家の骨格をつくり上げた四半世紀です。「近代国家をどうつくるか」という問いの引き受け手は明治政府であり、政府が何よりも優先して整えたのは、国民から負担を徴収するための制度的な経路でした。1872年の学制、1873年の徴兵令と地租改正によって、教育、兵役、納税の義務が、旧来の藩や村の仲介を経ずに国民一人ひとりへ直接課されるようになります。一方で、国民が引き受け手の側に加わるための回路の整備は大きく遅れ、国家や華族が一手に牽引することになります。1890年にようやく帝国議会が開設されたものの、有権者は直接国税15円以上を納める満25歳以上の男性に限られ、その数は総人口の1%強にすぎませんでした。自由民権運動は、負担を担う側からこの回路を求めた運動だったと言えます。

こうして1870年まで遡ってみると、戦前の75年は、問いの引き受け手が一貫して国家に固定されていた時代だったことが見えてきます。国民や企業は負担の担い手ではありましたが、引き受け手の側に加わることは最後まで限定的なままでした。これに対して戦後の75年は、引き受け手そのものが国家から企業へ、家族や地域へ、そして個人へと降りてきた時代とも言えます。

その上で、時間の長さそのものにも目を向けてみたいと思います。1870年から敗戦に至る75年と同じだけの時間を、戦後日本はすでに2020年の時点で歩み終え、現在地はそれを超えた先にあります。

戦前 75年   1870 ---- 1895 ---- 1920 ---- 1945
                                          |
戦後 75年                                 1945 ---- 1970 ---- 1995 ---- 2020 -- 現在

戦前の75年の間に、日本は近代国家の土台を築き、列強の一角へと登りつめ、やがて国家総動員に至りました。戦後の75年は同じ長さの時間のあいだに、引き受け手の所在がそれぞれ大きく動いています。戦後の75年というのは急速に変化した時代だったと考えられますし、2020年から今後についても、大きな変化が起こってもおかしくはないということです。

ただし、この遡行はあくまで国内の出来事だけを追ったものです。1870年の国づくりも、その後の75年の歩みも、実際には世界から日本に向けられた問いに答える形で進められてきました。そこで次の節では、1870年に立ったまま向きを変え、今度は世界の側から時間を進めてみたいと思います。

世界からの問いは誰に届いたか 1870–2020年代

日本における各四半世紀の変遷は、常にその時々の国際環境のなかで進んできました。とりわけ戦後の日本は、安全保障と国際市場の秩序維持の多くを米国に委ねることで繁栄を築いてきました。その委ねてきたものが何で、それがどのように変化してきたのかを把握しておかなければ、2020年代以降に私たちが問うべき問いを見誤ってしまうと考えています。

そこでこの節では、視点を世界の側に置き直して眺めてみます。世界が日本に何を問うて、その問いが国内の誰に届き、日本は何を引き受けて、逆に何を委ねてきたのかを、国内編と同じ四半世紀ごとの補助線を用いながら、1870年から時間順に辿ってみたいと思います。国内の歩みを追った節が、問いの引き受け手の移り変わりを「内側」から見たものだとすれば、この節は同じ移動を国際環境という「外側」から捉え直す試みです。

時期世界が日本に向けた問い問いの宛先日本の答え方(引き受けたもの/委ねたもの)
1870–1895年開国せよ国家近代国家を急いでつくる
1895–1920年列強の一角として振る舞え国家アジアの列強の一角に。総力戦に耐える国家をつくり、負担を国民に広げる。債権国へ転じる
1920–1945年恐慌と対立のなかでも、国際協調を保て国家大国間の協調が弱まるなか、日本も対外拡張を進める。連盟脱退を通告(1933年)し、やがて総力戦へ向かう
1945–1970年西側の一員として復興せよ。安全保障は委ねよ国家。輸出と雇用の担い手として企業へ届き始める安全保障の多くを米国に委ね、国家・企業が復興と成長を担う
1970–1995年経済大国として、市場を開き、貿易不均衡を調整せよ企業・国家企業と国家が貿易摩擦・円高への対応を担い、家族・地域・組合が国内の暮らしを支える
1995–2020年グローバル・スタンダードに合わせよ企業・個人海外の資本・活動基盤を利用し、個人の自由を広げる一方、対応の責任も個人に求める
2020年代秩序のコストを分担せよ+??答えは定まっていない。少なくとも、委ねていたものへの支払いや、先送りしていたことへの問い直しが行われ始めている

1870年から1945年までの三つの四半世紀において、世界からの問いの宛先は一貫して国家でした。最初の問いは「開国せよ」でした。その後、日清戦争を通じて列強間の競争に参入し、日英同盟(1902年)を経て列強の一角に加わり、第一次世界大戦を経て債権国へ転じるころには、世界からの問いは「列強の一角として振る舞え」へと変化していました。

1920年以降になると、世界からの問いは「恐慌や対立のなかでも協調を保ち、国際秩序の内側に留まれ」というものへと変わります。しかし1929年の世界恐慌ののち、主要国は自国通貨圏によるブロック経済へと閉じこもり、当時最大の経済力を持っていた米国も国際秩序の維持を能動的に引き受けようとはしませんでした。秩序の内側に留まれと求める世界の側にも、その秩序を支える引き受け手が存在しなかったのです。

日本はやがて満洲事変を経て国際連盟を脱退し、その延長線上で総力戦へと突き進むことになりました。第二次世界大戦末期に構想されたブレトンウッズ体制や国際連合の設立は、まさにこの反省の上に設計されたものでした。

1945–1970年に世界が、実質的には米国が日本に向けた問いは、「西側の一員として復興せよ、安全保障は委ねよ」というものでした。同国は金・ドル本位制やマーシャル・プラン、GATTやNATOなどを通じて自由主義陣営の同盟国に防衛体制と開かれた市場を提供し、その見返りとして国際秩序の意思決定を主導しました。

日本は日米安全保障条約のもとで防衛の多くを委ね、経済成長に資源を集中させます。このときの問いの宛先は国家でしたが、その答えを実質的に担ったのは輸出と雇用を牽引した企業であり、問いの届き先が国家から企業へと広がり始めました。前の節で触れた国家と企業による復興・成長モデルは、防衛と国際市場という外部環境を外側に委ねた上で初めて成り立っていた仕組みだったと言えます。

続く1970–1995年には、ニクソン・ショックや二度の石油危機、変動為替相場制への移行を経て、米国は新自由主義的な市場経済モデルへと舵を切ります。日本はこの時期、米国が維持する秩序の内側で最大の経済的挑戦者となり、世界からの問いは「貿易黒字を還流し、国内市場を開放せよ」へと変わりました。日米貿易摩擦や1985年のプラザ合意はその象徴です。摩擦の最前線に立っていたのは輸出企業であり、対外的な対応も企業の自律的な行動として求められたため、世界からの問いの宛先はこの段階で企業へと移っていきました。

ここで注目したいのは、外からの問いと内からの問いが、それぞれ別々の相手に届いていたという「ずれ」です。外側からは市場開放をめぐって企業に問いが届く一方で、内側では暮らしの問いを家族や地域、組合といった中間集団が引き受けていました。世界において問いの引き受け手が市場や企業へと移行しつつあったこの四半世紀において、日本国内では依然として親密圏や地域社会がまだ比較的機能していた、ということです。国内で問いの単位が市場や個人へと本格的にシフトするのは1995年以降のことであり、この時間差が、後の時代において短期間での急激な変化を強い、過酷な自己責任論へとつながっていった可能性もあると考えています。

1995–2020年には、WTO(世界貿易機関)の発足や中国の加盟を経て、ヒト・モノ・カネ・情報が国境を越えて活発に行き交うグローバル化が進展します。世界からの問いは「グローバル・スタンダードに合わせよ」へと変わり、その宛先は企業を飛び越えて一人ひとりの生活者へと直接降りていきました。1999年の政策方針が個人の自由と自己責任を行動原理に据えたことや、非正規雇用の拡大によって雇用の変動リスクが働く人々の側へ移された背景には、こうした外的な要請があったとも考えられます。自己責任という規範が資本や労働の流動性を高めるために求められたものだったとすれば、それは国際社会と個人が直接つながり、そして国際社会から個人へと直接投げかけられた問いでもあったと考えられます。

そして日本はこの四半世紀の間に、経済の基本ルールやデジタル基盤、そして資本の調達を海外、特に米国に委ね、その前提の上で個人の活動の自由を広げていきました。個人が世界に向けて情報発信できたのは巨大な海外プラットフォームの上であり、その利用条件を決定していたのも国境を越える巨大テック企業です。

結果として、国内における国家の存在感は相対的に後退していきました。同じころ、2008年の世界金融危機を経て中国がGDPで日本を追い抜き、米国社会の内部でも「なぜ自国が莫大なコストを払ってまで世界の秩序を支え続けなければならないのか」という不満が噴出するようになり、「米国は世界の警察官ではない」という2013年のオバマ大統領の発言につながります。世界が米国に委ねていたものへの支払いは、すでにこの時期から用意され始めていたと言えるでしょう。

そして2020年代を迎え、米中対立の激化やロシアによるウクライナ侵攻を経て、世界からの問いは「国際秩序のコストを分担せよ」という厳しい要求へと変貌しました。米国は関税措置や先端技術の輸出規制を通じて、同盟諸国に対しても相応の負担分担を強く迫るようになっています。かつて秩序を供給してくれた大国が、負担の対価を厳しく求める側へと転じたということです。

そして、ここまで述べてきた「世界」というものは、主に欧米を中心とした「世界」でしたが、この20年、グローバルサウスを含めて、様々な国々がこの世界の輪の中に入ってきています。そしてこうした国々は、まさに今、気候変動などのコスト負担を大きく受ける国々であり、そのコストをどのように世界中で分担するのかという問いは、まだ解決できていません。

同時期、各国国内でグローバリゼーションの影響による雇用等の不安定化に伴って、政治的にも産業政策が復権し、さらに経済安全保障の危機が叫ばれるようになって、問いの宛先は再び国家へと戻ってきました。ただし、その引き受け手の候補は国家だけにとどまりません。二国間・多国間の同盟や地域ブロック、さらには国境を越えて強大な影響力を持つ米国のメガプラットフォーム企業が、かつてとは違い大手を振るう中で、日本とEUなどのミドルパワーの国々はそれに対する対案を持てていません。力関係がいびつなまま、誰がこの秩序を引き受けるべきなのか、その枠組みはいまだ定まっていない状況です。

しかも、問いの宛先が国家に戻ってきたとしても、それに答えるために必要な手段が国家の手元にあるとは限りません。雇用のあり方を決めるのは個々の企業であり、資本の配分を決めるのは国境を越える投資家等による資本であり、サプライチェーンを実際に動かしているのも民間の事業者だからです。

つまり、問いの引き受け手は1995年以降に個人へと降り、決定のための権力と能力はグローバルな資本に集まり、そして秩序の維持にかかる請求書が国家や企業、国民宛てに届いている、ということです。2020年代の困難の根底には、こうしたねじれが同時に生じているという構造的な現実があると考えています。

こうしたなか、日本国内では明治初期の政治体制や戦後の高度経済成長期のような、かつての国家像へ回帰しようとする言説を目にすることが増えていますが、日本を取り巻く国際環境が根本から変容し、世界との結びつきを断ち切ることができない現状を踏まえると、過去の枠組みへの単純な回帰は現実的な解決策とは言えないように思います。

合流点としての2020年代

こうして国内の歩みと世界からの視座という二つの道筋をたどってみると、双方が同じ構造的な移動を内と外から映し出していたことが見えてきます。

内側では、問いの引き受け手が国家や企業から家族や地域へ、そして個人へと移っていきました。外側では、世界からの問いの宛先が国家から企業へ、そして個人へと向かっていきます。戦後日本の三つの四半世紀は、米国が支える国際秩序を自明の前提とし、その安全な内側で「国内の誰が課題を引き受けるべきか」を模索してきましたが、この内側と外側は、実は絡み合いながら並行して進んでいました。

2020年代に起きている事態とは、この二つの道筋が合流したことである、とも言えます。国内では少子高齢化やインフラの老朽化といった構造課題が限界を迎え、もはや個人や個別の組織だけでは抱えきれない規模の問いが前面に噴出してきました。同時に世界からは、これまで国際秩序を供給してくれていた外部の主体が、その維持コストを共同で分担するよう迫ってきています。国防や公正な市場ルール、エネルギーや食料、重要物資の安定供給といった基盤は、もはや無条件に与えられる前提ではなく、日本自身が他国と協調しながら能動的に引き受け、支えていくべき対象となりました。

そんな大きな問いが出され、それを誰が引き受けるのかが決まらないまま、そのコストの支払いを求める請求書が手元に届いている、というのが、私たちの現在地なのではないかと思います。

こうした変化の事業への影響

そして請求書の宛先には、国家だけでなくビジネス側も含まれています。戦後の日本企業は米国の安全保障や開かれた市場、海外のデジタル基盤に乗り、秩序の恩恵を享受してきました。その秩序が崩れつつある今、関税や調達コストの上昇、防衛費を賄う税負担といった形で、かつて誰かが負担していた支払いが今まさに事業にも届き始めています。

そこで国家と事業が再び一体化する道もありうるでしょう。しかし戦後の一体化が機能したのは、外からの進路の提供や、国内での配分、米国のコスト負担という三つの条件が揃っていたからです。現在の国家は進路を迷っており、米中に比べると実効的な手段も持てておらず、日本の国家と事業が一体化したところで、明治時代あるいは戦後のような経済的繁栄は戻ってこないでしょう。雇用や供給網を握る事業側が国家を支える側に回り、何のためにそれを担うのかを自ら問わざるを得なくなります。

しかも、一体化の相手は自国の国家だけとは限りません。AIや半導体のような資本集約型の領域では米中が抜きん出ており、日本単独の一体化では勝負にならないからです。同盟や地域ブロック、巨大プラットフォームも引き受け手の候補となるなかで、誰を信用し、何を自前で持ち、何を誰と共同で担うのかを、事業の側で判断し直す必要があります。

さらにいえば、誰かが設定した規範やルールのうえで戦い続ける限り、その胴元に勝つことは難しいでしょう。

それに国家が進路を見誤れば事業も立ちゆかなくなります。よって、事業が国家と一体化していくのであれば、なおのこと、国家の進路とその決め方を事業の側が主体的に考え抜く必要性が高まっていると考えています。それを間違えてしまうと、さらに大きな支払いをし続けることにもなりかねません。

2045年に向けて問い続けたい五つのこと

ここまでの歴史的な整理を踏まえ、私たちは2020年から2045年に至るこれからの四半世紀において、何を問い続けていくべきなのでしょうか。

前の節で見たように、この問いはビジネスから遠いものではありません。以前の記事で書いたように、思想は政策レジームや個別の政策、市場を経て、ビジネスの条件そのものを変えていきます。安全保障や脱炭素をめぐる政策がすでにそうであるように、これからの四半世紀にどういった問いが前面に出て、それがどのような思想によって束ねられていくのかを追うことは、次に形成される事業条件を先読みし、危機が来る前に何を守るかを決めるための作業でもあると考えています。

戦後日本の三つの四半世紀においては、時代ごとの課題も、その引き受け手となる主体も、社会全体である程度共有されていました。しかし2020年代の困難は、個別の課題に対処する以前に、「そもそもどのような枠組みで問いを立て直すべきなのか」という前提そのものを再設計する必要がある、という点にあるのではないか、とも思います。

私自身まだその答えを出すことはできていませんが、私たちが未来に向けて問い続けるべき論点を五つに整理して提示してみたいと思います。その上で、この2020–2045年という四半世紀を、2045年以降の社会の暮らしを支える「新たな土台づくりの時期」として位置づけたいと考えます。

1870年からの四半世紀が1895年以降の近代産業と国家の基盤を築き、1945年からの25年間が1970年以降の豊かな生活の土台をつくったように、社会の基盤を築き直すには四半世紀ほどの時間を要するように思われます。人口減少と高齢化が不可逆的に進行しても人々の暮らしが穏やかに成り立ち、激変する国際秩序の中で自律的な位置を保ち続けるための、持続可能な生活と統治の基盤をどう世界と日本の中で作っていくのか、という問いです。

(1) 「私たち」とは誰か

感染症の危機や安全保障環境の激変、脱炭素への移行、さらには人口減少といった課題は、単独の個人や個別の一組織だけで抱えきれるものではなく、何らかの共同の主体、すなわち「私たち」を結成して引き受けるほかありません。しかし、その「私たち」の輪の中には、一体誰が含まれるべきなのかという問いがまず生じます。

現在を生きる国内の有権者だけを見てみても、今は世代間で「私たち」の対立が見られます。それに加えて、現役世代だけにとどまるのか、将来において重い負担を背負うことになる未来世代を含むのか、あるいは医療・介護や物流、生産の現場を最前線で支えている外国人労働者や地域外の生活者まで包摂するのかという問いです。

誰を成員とするかは、「私たち」をどのような原理で束ねるかによって大きく左右されます。近代日本の既定路線は「国民国家」、すなわち国籍による統合でした。しかし、未来世代への配慮も、国境を越える移動者への対応も、国籍という単一の基準だけでは十分に扱い切れません。

統合の基盤となる選択肢としては、例えば次のような道が考えられます。(あくまで選択肢です)

  • 憲法や立憲主義の手続きへの合意によって結びつくこと
  • 同じ地域圏で暮らし、道路や医療などの生活インフラを共有する事実によって結びつくこと
  • 共通の生活リスクに直面し、相互扶助や社会保険を共有する連帯を基盤とすること
  • 望ましい社会像としての「共通善」を共有すること
  • 特定の社会課題をともに解決するという事業目的に賛同して結びつくこと

どの原理を選択するかによって、誰が内側に入り、誰が外側に置かれるのかという境界線は大きく変わるはずです。国籍は未来世代や外国籍住民を包摂しにくく、地域生活圏は移動の多い現代人を捉えにくく、共通善の共有は合意形成が難しい代わりに強固な結束力を生み出します。単一の基盤に依存するのか、複数の基盤を重層的に重ね合わせるのかという構想が求められるのではないでしょうか。

あわせて、安全保障や気候変動のように国際秩序そのものを共同で維持していくのであれば、「私たち」の輪は国境の内側に閉じるわけにはいきませんし、閉じたところで実効的でもありません。どの国や地域と、どのような課題を共同で引き受けるのかという対外的な連帯のあり方も、この問いに含まれます。「私たち」を課題の引き受け手として構想することは、何によって結束し、誰をその枠組みの外に置くのかを決める作業そのものでもあります。

(2) 何を誰がどう共同で引き受けるか

この問いは、「どこまでを共同で担うかという線引き」と、「それを具体的に誰が担うのかという割り当て」の二段構えで考える必要があると思います。

まず、どこまでを共同で担うかという「線引き」についてです。戦後の約75年間における主要な関心事は、経済成長によって生み出された果実を「どのように公平に分配するか」という点が主でした。

しかし2020年代の日本において、私たちが直面しているのは、生活に必要な基盤を「そもそも安定して供給し続けられるのか」という、一段手前にある生産と供給の限界に関する問いです。医療や介護、エネルギー、食料、物流の担い手不足に加えて、資源価格の高騰にいかに社会全体で対処するかという課題も、すべて供給の維持に関わる問題です。

さらに前述したように、防衛や市場ルール、基幹物資の調達といった、これまでは自明のものとして外部に委ねていた国際秩序の維持までもが、いまや日本社会も能動的に引き受けるべき課題となってきました。

これらの課題のうち、どこまでを社会が一体となって引き受け、どこからを個人の自己責任に委ねるべきかが問われます。共同の範囲を広げすぎれば、国家による個人の統制という全体主義的なリスクを呼び込みかねませんし、逆に個人の領域に残しすぎれば、1995年以降の過酷な自己責任論をさらに加速させてしまい、現在のアメリカのような状況になるかもしれません。

さらに、急激な人口減少のもとでは、これまでの拡大を前提とした制度設計から、規模の適正化を前提とした「縮小の設計」へと舵を切る必要があると考えています。何を畳み、何を守り、どの地域にどういった生活機能を集約していくのか、という判断です。もし受け皿となる拠点に十分な医療や交通の担い手が存在しなければ、拠点の集約は住民にとって長時間の移動や待機という過重な生活負担となって跳ね返ります。撤退する側に残される住宅やインフラの維持管理をどうするのかという問題も、未解決のまま残されます。

高度成長期に作られた諸制度は拡大局面の意思決定しか想定しておらず、縮小や撤退を決定するための公正な手続きと責任の所在は、ほとんど確立されていません。あわせて、政策の目標を「格差の是正」に置くのか、それとも「最低限の生活の安定」に置くのかという優先順位の整理も必要です。統計上の格差が拡大していなくても、インフレやサービス縮小によって生活実感が困窮していく事態は十分にあり得るからです。

もう一つの側面として、それらの供給を具体的に誰が担うのかという「割り当て」の論点があります。1945年以降の国家と企業は公共サービスの供給基盤を、1970年以降の家族や地域は生活を支える調整の回路を、1995年以降の自立した個人は自ら問いを立てる自由を、それぞれ次の時代への遺産として残してきました。

しかし、現代の複合的な危機に対して、過去のいずれかのモデルへと単純に回帰すれば解決するというものではありません。国家は何を直営すべきなのか、民間企業はどこまで公共的な責務を負うべきなのか、機能不全に陥った地域や家族の穴を何が埋めるのか、そして起業家によるイノベーションはどこまで公共課題を解決しうるのか、といった役割分担の再設計が求められます。

この割り当ては国内だけではなく、国際関係でも問われています。世界の側から見た節で触れたとおり、2020年代には同盟や地域ブロック、国境を越えるプラットフォーム企業も引き受け手の候補に並んでおり、何を国内で担い、何を他国や国外の企業と共同で担うのかも、この割り当てに含まれます。

これらの線引きと割り当ては、実際には不可分の一体として決定されます。たとえば介護や育児を社会全体で引き受けると決めることは、その担い手を家族の無償労働から解放し、公的な専門職として適正に処遇することを決めるのと同義だからです。介護や育児の公的な支援を、働く人たちを増やすためのインフラとして見るのか、家族や個人で対応するべき仕事として見るのかは、大きく意見が分かれる可能性もあります。

(3) 利益と損失をどう配るか

いかに社会的な課題を共同で引き受けると理念を掲げたところで、その取り組みから生じる利益と損失が誰に帰属するのかという配分のルールが明確でなければ、現場の担い手も、民間の投資資金も、負担を引き受ける生活者も集まりません。

1945年以降の国家と企業による開発体制が国民に広く受け入れられた最大の理由は、高度成長によって生まれた利益が、賃金の継続的な上昇や終身雇用として社会の隅々まで還元されたからだと考えています。ここで論じるべき配分とは、単に余剰を分け合うための事後的な分配ではなく、人々が困難な役割を進んで引き受けるための動機づけとなる配分設計です。

まず、生み出された利益は誰に帰属するのかという問いがあります。労働者の賃金へと還元されるのか、それとも資本の側に配当として集中するのかという問題です。労働組合や産業別の労使交渉など、分配を調整してきた従来の回路が細るなかで、何がその代わりを果たしうるのかが問われます。

同時に目を向けるべきなのは、構造変化に伴う損失を誰がどう引き受けるのかという点です。技術革新や貿易構造の変化、産業の縮小によって失われる雇用や地域コミュニティの打撃は、特定の層に偏って集中し、その影響は長期化しがちです。打撃を受けた人々が、利益の生まれる新たな成長分野へ容易に移行できるとは限りません。

さらに、リスクを取った結果としての「上振れ」の果実を誰が享受するのかという論点もあります。共同で引き受けた供給基盤の整備や公共投資が大きな成果を上げたとき、そのリターンは挑戦した起業家のものなのか、投資した公共のものなのか、あるいは広く利用者に還元されるべきなのかという、成果配分の公正さが問われます。

そして時間軸の視点として加えたいのが、世代をまたぐ配分の問題です。すでに資産を蓄積した層と、これから形成する若い世代とでは置かれた条件が根本から異なります。将来世代への負担の先送りも、時間軸上の不公正な配分だと言えます。2040年代以降に実を結ぶ長期投資の原資を誰が拠出し、経済成長を前提に作られた社会保障などの分配モデルを、低成長・人口減少の前提でどう再設計できるのかも、この問いに含まれます。

さらにここまで説明してきたとおり、2020年代には、国の外から求められる負担を国内でどう配るかという論点が入ってきました。合流点の節で見たとおり、秩序のコストは外部から無条件に与えられるものではなくなり、日本自身が分担を求められ始めています。防衛費の増額、経済安全保障の名のもとにエネルギーや重要物資を自国や同盟国内で調達することに伴う価格の上昇、関税による輸出産業への打撃は、いずれも国内の誰かが負う負担になります。

このコストを税として広く薄く負うのか、価格として消費者が負うのか、あるいは雇用として特定の産業や地域が負うのかは、まだ決められていません。逆に、経済安全保障の名のもとで進む産業政策や公共投資が利益を生んだとき、その帰属も同じ問いの対象となります。

現代において警戒すべき病理があるとすれば、利益は特定の富裕層や大企業に狭く集中し、構造改革に伴う損失や負担は同じ社会的弱者に重ねられ、政策の決定権は利益を享受する側の声に偏って傾いていく、という構図に向かう重力です。しかもそれが世界規模で起こり、AIやクラウド等の技術においては米中へと偏るかもしれない中で、日本がどのように冨を作り、それをどのように配分していくかは改めて大きな問いとなっていくでしょう。

(4) どう決めて、どう修正し続けるか

感染症の急激な流行や地政学的有事といった突発的な出来事に対する迅速な対応に加えて、そうした出来事への準備、そして2040年代を見据えた長期的なインフラ整備や研究開発への投資といった時間軸の異なる意思決定を、どのように並行して行っていけるのかという難題がまず挙げられます。

また、人口減少に伴うインフラの撤退など、一度決断を下せば後戻りができない重大な判断に対して、目先の利害に流されやすい通常の多数決手続きをそのまま適用してよいのかという点も検討を要します。これは気候変動対策も同様で、現在投票権を持たない将来世代の長期的な利益と負担を、いかにして現在の意思決定に制度的に組み込むかという課題も無視できません。さらに、共同で政策や事業を引き受けたものの失敗に終わった際、その失敗を客観的に検証しながら、ときには柔軟に軌道修正を図る仕組みが社会に備わっているかも問われます。

さらに2020年代には、決め方を問う以前に、決定の場そのものが国内になく、影響力を及ぼしづらいという事態も出てくるようになりました。関税や先端技術の輸出管理は米国が決め、同盟内の負担分担は外交交渉の場で決まり、個人や企業が活動の基盤とするプラットフォームの利用規約は、その運営企業が定めます。

国内でどれほど公正な手続きを整えても、負担を左右する重要な判断の一部が外で下されるのであれば、その決定にどう関与し、あるいはどう自律的な距離を取るのかまでが、決め方や統治の問いへとつながっていくことになります。そうした意味で、委ねていたものを引き受けるとは、外で決まった方針やルールに沿うだけの立場から、決定の場に参加する側へと移り、参加するためのコストや発言や提案をするためのコストを引き受けることでもあると考えています。

あわせて注視すべきなのは、「なぜ明らかな不備を抱えた制度がいつまでも修正されないのか」という政治経済学的な問いです。労働法制や税制、社会保障制度に構造的な歪みがあると広く認識されていながら、その抜本的な改革は遅々として進みません。資産や強固な組織力を持つ既得権層と、非正規雇用や不安定な就労状況に置かれた層、あるいは新規のやり方を提案する層とでは、政治や政策形成の場に持続的にアクセスし、自らの声を届けるためのリソースに著しい差が存在します。

経済的な優位性が政策決定における優位性を生み出し、その有利な政策が既存の経済的格差をさらに固定化・再生産するという悪循環は、強く警戒しておくべき構造的なリスクだと言えます。意思決定のあり方とそれを見直すプロセスを問い直すことは、2020から2045年の社会において主役となるべき若い世代を、いま社会全体でどのように育み、支援していくのかという教育や機会の保障の問いにも直結していると考えています。

(5) その中で個人の自由をどう保つか

1995年以降の四半世紀において確立された、個人が生き方や働き方、協働する仲間を自律的に選び取る自由は守るべき前提であり、まだその自由を享受できていない人たちに対しても最大限拡張していくべきだと考えています。しかし一方で、集団としての意思と力を持たなければ、感染症や気候変動、安全保障等の大きな課題にも取り組めない、というジレンマがありますし、個人の自由を担保する前提としての互いの協力や基盤も必要です。

そして自由を実際に行使するには、形式的な選択肢の多さだけでなく、それを行使できる実質的な条件が整っていなければ、形骸化してしまいかねないように思います。たとえば、不当に条件の悪い仕事を断れることや、より良い環境や機会を求めて移れること、そして予期せぬ困難によって一時的に収入が途絶えても耐えられることなどです。こうした条件が整っていなければ、形式的には選択の自由があったとしても、それを仕えないまま終わってしまいます。

そしてこうしたことを実現するには制度的基盤が欠かせません。劣悪な条件の労働を断るためには、当面の生活を支える資産や確実な公的給付が必要ですし、別の仕事や地域へと移るためには、職業的な学び直しの機会や、介護・育児といったケア負担を軽減するための時間と経済的支援が求められます。不測の事態に耐え抜くためには、雇用形態や就業状況が変わっても途切れることのない普遍的なセーフティネットが支えとなります。

戦後日本の社会設計において、これらの生活保障は主に企業の正規雇用と世帯内の扶養関係に強く紐づけられる形で提供されてきました。1995年以降に起きたのは、個人の自由が謳われる一方でこの旧来の紐づけが急速に解体され、生活を支える保障の基盤が外されたまま、過酷な自己責任だけが個人の肩にのしかかるという状況だったように思います。

だからこそ、様々な世界的な状況の変化を見つつも、自由を行使するための前提条件を、社会全体としてどう保障していくかということを忘れてはならないのだろうと思います。その際、かつて企業や家族が果たしていた生活調整の機能を誰がどう引き受けるのかが大きな論点になります。そこでもまた、共同体としての在り方が問われるようになるでしょう。

あわせて、個人が発信したり、商売をしたり、仲間を募る基盤の多くが、現在は国境を越えるプラットフォームの上にあり、その利用条件を個人の側では決められないことも、「断れる」「移れる」の実質を左右してしまっています。特定の雇用主に従属しない自由は、特定のプラットフォームに従属しない自由でもあるはずです。これをどこまで担保するのか、たとえばSNS等を国として持つのか、それとも海外のプラットフォーマーに制裁できる力を持つのか、といった様々な方法があり得ます。

また、社会保障を共同で手厚く担うことによって、かえって過度な受給要件による束縛や監視が強まり、個人の尊厳やプライバシーが損なわれるリスクをどう防ぐかという点も、慎重に見極めるべき論点です。家族に過度なケア負担を背負わせず、特定の雇用主に従属しなければ生きていけない脆弱さを克服する社会の設計が求められているのではないかと考えています。それは、自由を犠牲にした代償として保障を与えるのではなく、「自由を真に行使するための基盤として保障を整える」という思想の転換だと考えています。


こうした五つの問いへの答え、すなわち誰が何をどう引き受けるかを定めることが、そのまま思想の要素である規範や進路になると考えています。

そして五つの論点は相互に深く連動しており、一つの問いに対する選択が、他のすべての問いの前提を根本から規定するような関係性もあります。共同で引き受ける範囲を広く取れば「私たち」の境界は広がっていきます。負担を負う人たちに決定権を渡せば、その負担を避けようとして集約の速度は遅くなるかもしれません。答えを互いに整合させて進むためには、何をもって望ましい社会とするのかという規範(ものさし)を選ばざるを得ません。

そしてもしそうした規範を私たち自身が設計できなければ、その空白に対して、海外から輸入される規範が入り込んできてしまうでしょう。『スタートアップの思想の空白』の記事で論じたとおり、私たちは考え方や製品を輸入することになれてしまっていますし、昨今はデジタルプラットフォームやAIなどを通して、その規範は入り込みやすくなっているようにも見えます。

逆に言えば、戦後長く委ねて後回しにしていた、戦後の国際社会における日本のアイデンティティや思想を改めて問うべきタイミングとも言えるのではないでしょうか。

そこで現時点で確たる結論が出ているわけではありませんが、これまで紹介してきた新しい経済学や海外の政策アジェンダを手がかりにすると、ものさしの候補として以下のような方向性が考えられます。

整理の軸にしたのは、それぞれの構想が何によって結ばれた「私たち」を想定しているか、という違いです。問い(1)で挙げたように、「私たち」を結ぶ原理には、生活圏の共有、生活リスクの共有、事業目的への賛同、共通善の共有などがありました。結び方が決まれば、国内で誰を「私たち」に含めるかも、国の外で誰と何を共同で担うかも、同じ原理から導かれます。以下は各議論の要約ではなく、本稿の問いに引きつけた私なりの見取り図であり、それぞれの詳しい検討はリンク先の記事に委ねます。

どの整理にも弱点はあります。生活で集団を作ろうとすると圏外の人や国の扱いが曖昧になり、帰属意識で作ろうとすればそこに入らない人たちを排除してしまいます。ただ、これらの候補は相互に排他的ではなく、実際の「私たち」は複数の方法を重ねても成り立つはずですし、重ねることで互いの死角を補うこともできます。その上で、どういった地図と規範と進路を選ぶか、ということが「思想を選ぶ」という営みであり、選ばれた思想に応じて適切な事業は異なってくるでしょう。

2045年は、日本にとって戦後100年の節目にあたります。私たちはいま、戦後第4の四半世紀、すなわち次の時代の引き受け手となる主体のあり方を形づくる時期に入っていると考えています。そして同時に、何かしらの集団や共同体を作らなければ、現在の問いにも答えられない状況でもあります。そんな中で思想を考えるというのはおそらく、どういった「私たち」を選び、その中でどのような在り方を選ぶか、ということでもあり、それが私たちに課せられている問いではないか、と考えています。