スタートアップの思想の空白 ―― 『テクノロジカル・リパブリック』が摩擦なく受容されやすい構造について

『テクノロジカル・リパブリック』が日本でも話題になっています。著者のアレックス・カープはPalantirのCEOであり、その主張の骨子は、技術産業は消費者向けの便利さから離れて、国家の目的と結び直すべきだというものです。
ここ数年で入ってきたのは、この本に加えて、効果的加速主義(e/acc)やテクノ楽観主義に代表される『技術至上主義的な思想』、シンギュラリティ(技術的特異点)を人類の救済や終焉と結びつけて捉える『終末論的な思想』、そして第三に、a16zが提唱するAmerican Dynamismのようにな技術・国家・資本を一体として推進しようとする『国家再建的な思想』などです。
しかもこれらは投資テーゼや製品、調達の前提という形で、つまり事業と資本を伴って現在日本に入ってこようとしています。その中には、国家、安全保障、民主主義、統治、自由の意味といった、社会の根幹に関わる価値判断も含まれているように見えています。
これほど大きな価値判断を含むものが入ってきているのに、そこまで大きな摩擦が起きていないように見えます。もちろん、ロシアによるウクライナ侵攻をはじめ、日本の安全保障環境が変わっているからということもあるかと思いますが、とはいえ、全体としてはむしろ好意的に受け入れる若手・中堅世代が多いと感じるのは、考えてみれば不思議なことです(若者から中堅世代は新規性の高いものに引きつけられやすい傾向にあるとはいえ)。
本稿では、この摩擦のなさの理由を考えます。主に原因は送り手の巧妙さよりも、受け取る側の構造、つまり私たち側にあるのではと考えています。
答えを委託した経路の確立
(1) シリコンバレーから答えを受け取る経路の確立
話は2010年代に遡ります。スマートフォンとクラウドで創業費用が下がり、金融緩和で資金調達環境が改善して、日本のスタートアップ市場が急速に立ち上がった時期です。市場の器が整うのと並行して、シリコンバレーから多くの言葉と考え方が輸入されました。2012年には『リーン・スタートアップ』の邦訳が刊行され、それに加えてY Combinator流の方法論、ピッチの形式、投資契約の雛形までが一式で導入されます。
この輸入は合理的でした。実績のある成功事例があり、教材とテンプレートが揃っていて、投資家に説明できる形式が最初から手に入ったからです。私自身、その輸入に関わった一人だという自覚があります(直輸入ではなく変更が必要だった部分も多かったと、いまは反省を込めて思いますが)。
ただ、輸入されたのは「どう作るか」という方法論だけではありませんでした。方法論が答えるのは、主にHowです。何を作るか、なぜその領域を選ぶかという問いには、別の供給源が必要になります。
その役割を担ったのが、「シリコンバレーで起きたことは数年後に日本でも起きる」というタイムマシン経営的な発想でした。これは市場予測の手法であると同時に、未来についての語りでもあります。「日本の数年後は、シリコンバレーの現在を見ればわかる」という語り方を採用した時点で、未来を自前で構想する必要はなくなります。つまりこの時期の日本は、Howだけでなく、WhatとWhy、そして未来の語りまでをまとめて、答えとして輸入することで急速に立ち上げることができました。

(2) 未来の語りを委託し、過去と現在を目指す日本の Why
一方で、「なぜこの事業をやるのか」を自分の言葉で語る形式も、同じ時期に国内で模索されていました。
その一つは原体験です。自分が経験した困難から事業を説明する語り方は、動機を理解しやすくし、投資家に説明できる形式を与えました(この問題は「『原体験』はなくてもいい」として以前書きました)。
もう一つは社会課題です。阪神・淡路大震災と東日本大震災を経て市民活動やシビックテックの実践が広がり、顕在化した課題から事業を説明する語りが根づきました。この系譜自体は輸入品ではなく、日本の貴重な蓄積だと思います。
この二つには共通の構造があります。どちらも、事業の理由を過去か現在に求めるという点です。原体験は自分がすでに経験したことに、社会課題はすでに顕在化していることに、語りを結びつけます。すでにある課題への取り組みの正当性は誰からも問われないでしょう。しかし、未来をこうしたい、という話に正当性を求めるのは難しいことです。
こうして、過去は原体験が語り、現在は社会課題が語り、未来はシリコンバレーの言説から輸入する、という語りの分担ができあがりました。個人の動機としてのWhyは原体験で補えたものの、産業や社会をどこへ向けるかという未来形のWhyは、国内では担い手がいない状況が続きました。
こうして日本には、シリコンバレーから未来の How、What、Why の答えを受け取る経路が、25年かけて作られました。
ここまでかなり単純化した構図を描いてきましたが、摩擦が起きない理由の1つは、こうした構造にあるのでは、と考えています。そしてシリコンバレーの企業群の成功と25年分の実績は、こうした経路への信頼になっています。今その経路を経て入ってきている思想も、従来のような未来予測や投資テーゼ、製品という見慣れたパッケージで通ってくる限り、「それが答え」であるかのように入ってきやすい構造がある、とも言えます。
ただ、これだけでは説明の半分にしかなりません。パッケージを信頼して受け取ることと、中身の価値判断まで受け入れることのあいだには、まだ距離があるからです。そこでもう一段掘り下げて考えます。
思想は地図とものさしと進路でできている
入ってくるものを選別するには、それが何でできているかを分解できなければなりません。その分解のためには、受け取り側に何かしらの判断基準が必要です。その判断基準を構成するものが、かねてから取り上げてきている「思想」です。
ですが「思想」という日本語は、哲学から世界観、教義、態度までを広く覆っていて、そのままでは分析の道具になりません。学術的にも事情は同じで、イデオロギーという概念には単一の合意された定義がないようです(スタンフォード哲学百科事典も、複数の用法が並存していると整理しています)。
そこで本稿では、便宜的に、思想を『社会についての「地図」と「ものさし」と「進路」を、ひとまとまりにした思考の枠組み』として扱います。これはMullinsによる古典的なイデオロギーの定義の一部です1。3つの働きは、それぞれ次の問いに答えます。
- 地図:認識の要素です。社会がどのような歴史を経て現在に至り、何が問題で、何が原因かを示します。また社会の機序や仕組みも含み、現在の条件から導かれる将来の見通しも含みます。
- ものさし:評価の要素です。現状と予想される将来を評価し、どのような社会を望ましいとするか、何が正しく、価値が衝突したときにどちらを優先するのかを示します。自由、平等、秩序、安全、成長の優先順位も含みます。
- 進路:集合的行動の要素です。社会を維持・修正・変革するために、誰がどう動くかを示します。
地図を広げ、ものさしを当てて、進路を引く、という海図の上の作業のイメージです。

2010年代にシリコンバレーから入ってきた未来の予測や方法論で目立ったものは、主に地図と進路でした。社会の仕組みは非効率が問題で、ソフトウェア技術によって解決できるといった「地図」や、それをどう変えていくのかといった「進路」です。ものさしもその中に含まれていましたが、世界全体で新自由主義的な市場原理主義を共通して持っており、そのためあまり摩擦は生まれませんでした。
しかしいま、新自由主義敵な考え方に見直しが入りつつあり(その兆候はSubstackにまとめています)、様々な思想が入り乱れつつあります。その中で勢力を持ちつつあるのが「シリコンバレーをとりまく思想」でまとめたような、効果的加速主義やテクノ楽観主義、暗黒啓蒙などの、これまでとは異質な地図とものさしが含まれる思想群です。
それらには「問題は民主主義やリベラルにある」といった地図や、「軍事事業は消費者向け事業に勝る」といったものさし、そしてそのための投資テーゼや「とにかく加速しろ」という進路などが含まれています。そしてこの思想の一部は、肥大化していく少数のVCの資本力とともに、Palantir や Anduril のような実業を含むパッケージとして展開されつつあります。
こうしたパッケージは分解しなければ選別できません。 そして分解した中身を測るには、自前のものさしが要ります。しかし日本では、そのものさしが十分に準備できていないのでは、と考えています。
いま日本で書かれている思想
では、その自前のものさしはどうなっているのでしょうか。スタートアップの思想の受容経路は主に若者から中堅世代の間で行われるため、現在日本で見られる新しい潮流を見ていきたいと思います。その際に、それらの思想が「誰」に向かって書かれているかを整理すると分かりやすいので、国家、文明、個人、産業の順に見てみます。
(1)国家に宛てた潮流:デジタル民主主義
安野貴博は2024年の東京都知事選挙で約15万票を得て、2025年にはチームみらいとして参議院に議席を得ました。オードリー・タンとグレン・ワイルの『Plurality』をはじめとするデジタル民主主義の構想が、政党、選挙、行政という経路で実装まで進んでいる、世界的にも珍しい事例です。
思想の「地図・ものさし・進路」の要素で見ると、この潮流は地図と進路が明快です。民主主義の運用が情報の流通と合意形成の面で目詰まりしている、だから技術で直せるという診断と手段が、議席という実装まで行われました。一方で薄いのは、どのような社会を望ましいとするかというものさしのように見えます。可視化、熟議、合意形成といった言葉が指しているのは、社会の中身ではなく運営の改善です。そして手続きの改善された未来は、「効率的な未来」とは言えますが、ものさしがなければ、その効率をどう測るのか、という問いには答えられません。
チームみらいは「フルパッケージ政党でもシングルイシュー政党でもない争点特化型政党」を志向しているようです。扱わない争点について党として統一的な判断を示さないことは、意図的な設計だと言えるでしょう。そして、そうした価値基準を示さないからこそ受け入れられている、と言えるかもしれません。ただ、政策領域が広がるほど、限られた予算と時間を何に先に配るかという優先順位の問題は避けにくくなり、いずれ統合原理となるものさしを示す必要に迫られるのではないか、と思います(個人的には、そこを乗り越えて頑張ってほしいと思っています)。
(2)文明に宛てた潮流:脱成長
次に、自治体、協同組合、市民運動の潮流です。この例として、斎藤幸平の試みがあります。『人新世の「資本論」』(2020年)は50万部を超えて読まれ、各国語に翻訳されています。斎藤は脱成長とコモンの構想を掲げ、直近では『人新世の「黙示録」』で暗黒社会主義という構想を示しながら、協同組合、自治体、市民運動を通じて、資本主義の仕組みそのものを組み替えようとしています。これは第I部と第III部で見た、大正から戦後へ続く思想と社会運動の系譜、賀川豊彦の協同組合以来の系譜に連なる、明確な実装の試みです。
斎藤の取り組みに言及する理由は、脱成長という結論への賛否だけにあるのではありません。社会の因果を診断し(地図)、別の社会像を示し(ものさし)、それを協同組合や市民運動という実装主体へ結びつけようとしている(進路)点にあります。かつその言葉を、相容れないようなメディアにも積極的に出ることで伝えようとしている、希有な試みの1つのように見えます。
ただし、宛先の単位は文明、つまり経済体制そのものです。単位が大きいほど、実装までには多くの主体を動かさなければなりません。協同組合や自治体での試みと、資本主義を組み替えるという構想の規模のあいだには、大きな距離が残ったままです。これは構想の弱さというより、最も大きな単位を選んだことの帰結でしょう。
(3)個人に宛てた潮流:令和人文主義
三つ目に取り上げるのは、思想そのものというより現象です。哲学者の谷川嘉浩は、2016年以降に現れた人文知の語り方を「令和人文主義」と名づけました。知を競争や換金可能性から切り離し、多メディアを通じて学ぶこと自体の自己充足性を肯定する語りの傾向とされ、三宅香帆、戸谷洋志、深井龍之介らが例に挙げられます。谷川自身が繰り返し断っているとおり、これは共通の社会像や教義を持つ集団ではなく、時代に共通する語り方と届け方の時代傾向につけられた名前です。
確認しておきたいのは、需要の規模と宛先です。たとえば、その流れの一人である三宅の『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(2024年)は発売一週間で10万部以上売れるほどの大規模な需要がありました。その中で「半身で働く社会」という構想が提示されましたが、これは主に個人の読者に宛てられた人文知でした。
とはいえ、これは人文系の生き残り戦略として採用された面もあるように見えます。1990年代以降、争点が経済に移り、社会や規範を語る必要性が相対的に薄れたことや、2000年代以降の自己啓発の隆盛と教養とを結びつけることにより、商業的にも受け入れられやすかったという面もあるでしょう。
ただし宛先が読者個人である以上、その言葉は構想の実現のために企業の人事制度や社会保障を動かす仮説としてではなく、読み手の生き方の指針として受け取られる傾向にあります。地図とものさしの段階から、宛先が個人に置かれているのであれば、産業や国家に流れる構想にはつながりづらくなります。
(4)産業に宛てた潮流:スタートアップとVC
最後が、スタートアップとVCです。アメリカにおいて思想の乗り物となっている潮流であり、事業と資本という実装の手段を、最初から内蔵している潮流でもあります。
2010年代、テック業界の伸長が世界経済を牽引してきたことも併せて、様々な業界がテック業界、ひいてはその裏にあるスタートアップやVCについて注目してきました。
3つの要素で見ると、偏りがはっきりします。進路は豊富です。どう作り、どう資金を集め、どう成長させるかについて、これほど方法論が整備されたことはないでしょう。地図もあります。ただし日本において、その地図は、最初の節で見たとおり輸入品でした。そして、日本でよく使われるものさしは、原体験と社会課題という過去と現在に向いた形式です。どの能力を国内に持ち、どの技術に賭け、どの市場を新しく作るかという、産業や国に宛てた未来形の優先順位は、そこからは出てきません。
つまりこの潮流の特徴は、思想がないことではなく、地図と進路を外部から受け取り、ものさしを個人の動機で代用していることです。
そして現在、多くの起業家が、スタートアップで急成長を目指すことではなく、もっと手触り感のある事業やスモールビジネスへと回帰して、自分の手の出る範囲での事業へと向かっているように思います。それにより、さらに未来の言説についての空白が増しつつあります。
4つの潮流を対象と時制で比較する
こうして並べると、日本でも思想がそれぞれの場所で働いていることがわかります。そして当然、それぞれに十分な価値もあります。政治の改善は現実に生活を良くしますし、個人の生き方や稼ぎ方を良くすることにも意味があります。
そのうえで、時制を揃えて見直すと、構図が浮かび上がります。未来のあるべき社会の姿を自前のものさしとして提示しているのは、おそらく脱成長だけでしょう。ほかの潮流は、いずれも現在の統治と経済の枠組みを所与として、その中の性能を上げる仕事をしていたり、個人を救おうとしています。そうした中で、思想が手薄な社会や産業を宛先にした『テクノロジカル・リパブリック』などの、人文知をまとったような思想が流れ混んできている、という状況に見えます。
それぞれの思想的な言論が、いま海外からやってきている思想とは別の場所で活動しており、現在の日本において、未来の社会のあるべき姿や、ものさしや価値基準についての言論が不足しているから、摩擦なく海外の思想が入ってこれるのではないか、というのが現在の仮説です。
残った一本のものさしとしての「お金」
ここまで「ものさしが空いている」と書いてきましたが、厳密には空ではありません。一本だけ残っています。お金です。
どれだけ儲かるか、どれだけ速く伸びるかという基準は、明文化され、計算可能な形で共有され、実際の判断に使われています。最初の節で見た輸入された方法論も、この基準に最適化された形で入ってきました。事業の現場にあるのは、ものさしの不在ではなく、お金という一本のものさしが強くある状態です。
お金というものさしが一本だけ残れたのは、それが唯一、違うものを同じ目盛りに載せられるからです。安全と自由と公正のどれを先にするかは、共通の単位がないので決着しません。しかしお金は、それらをひとつの数直線に並べ、比較と足し算を可能にします。ジェリー・ミュラーが『測りすぎ』で論じたとおり、これは同じ目盛りに載らないものが比較の場に出てこなくなる構造でもあります。
しかもお金には、時制を現在へ吸収する機能があります。投資は、将来の値段を割り引いて現在の値段に直す仕組みです。未来を測れるようにしますが、同時に値段のつかない未来や価値を低く評価します。
厄介なのは、ものさしが「一本もない」ことではなく、「一本だけある」ことです。本当に何もなければ、入ってくるものは何であれ、いったん検討の対象になります。しかし一本だけあると、その一本と衝突しないものは、検討されないまま通ってしまいます。抵抗が働くのは、収益と相容れない構想に対してだけです。
いま入ってきている思想は、まさにその形をしています。防衛も宇宙も、特にアメリカでは市場として大きく、国家が顧客になります。お金のものさしは、これを肯定します。むしろ「儲かるテーマ」として高く評価すらするでしょう。価値判断のために使えるものが、そのものさししかないからです。
そのうえでこの思想は、収益だけでは供給できないもの、つまり何のためにやるのかという意味を、一緒に持ってきます。既存のものさしと競合せず、その足りない部分を埋めにきています。だから摩擦が起きづらく、受容されやすいのではないでしょうか。空いた席に誰かが座ったというより、席が用意されないまま資源だけが動いてきた場所へ、外から椅子が運び込まれているのだと思います。

かっこよさという衝動
そこに、美が加わります。真・善・美という古い区分を借りれば、いま入ってきている思想は、何が起きているか(真)と何が正しいか(善)だけでなく、美の側でも作られています(参考:働き者ラジオ「テクノロジーとかっこよさ」)。Palantirの社名がトールキンから採られていることも、その黒く重い意匠も、「Forward Deployed Engineer」という職種名も、偶然ではないでしょう。文明の存亡が懸かった仕事だという物語と、それにふさわしい見た目と、国家への奉仕というヒロイズムが、一緒に設計されています。
美的な判断は、論証を必要としない唯一の評価です。儲かるかどうかは計算できますが、それをやる意味があるかどうかは計算できません。そして、かっこいいかどうかは、計算しなくてもその場で決まります。だから、ものさしが一本しかない場所では、意味の隙間を真っ先に埋めるのが美になります。批判すべきは、それをかっこいいと感じる人ではなく、お金とかっこよさ以外のものさしが手元にないという状態のほうです。未来形のものさしがないということは、未来についての判断が、収益の計算と美意識だけに委ねられているということでもあります。
念のため、いまの日本に反発がないと言いたいわけではありません。防衛や監視への拒否反応は、確かにあります。しかし、拒否と選別は違います。パッケージを分解して、使うものと使わないものを分けられないなら、丸ごとの拒否は、丸ごとの受容と同じ構造だからです。摩擦のなさとは、抵抗の不在のことではなく、選別基準の不在のことです。
選別する力と選べる実弾
本来であれば、思想や倫理などを市場側のプレイヤーが考える必要性はないのだろうと思いますし、ジョセフ・ヒースが『資本主義にとって倫理とは何か』で説くように、市場はそうあるべきではないとも思います。しかし米国を中心に、思想とビジネスが一体になって市場の欠陥を積極的に活用しにきているような現状を見ると、お金というものさしだけですべてを判断しようとすると、私たちはひどく無防備になってしまうのではないかと思っています。
そこで、私たちがこれから米国の思想と向き合う際に必要なことを最後に考えたいと思います。
1つめは、入ってくるものを選別する力です。思想を三つの要素に分解し、その地図が日本の条件に当てはまるかを検証し、ものさしを自分たちの優先順位と突き合わせ、別の進路を示す能力のことです。よくできた思想ほど、ものさしは価値判断としてではなく、地図の帰結として提示されます。こういう状況だからこれを優先すべきだ、という形をとるので、そこに選択があること自体が見えにくくなります。
それを選択だと見抜けるのは、自分たちで優先順位を議論した経験があるときです。未来や規範を国内で論じておくことの効用は、良い結論に辿り着くための営為であると同時に、他人の結論を選択として見分けられるようになることのほうにあります。だからこそ、私たちはもっと未来や規範を語る必要があるのではないか、と思っています。そこには社会と向き合い、どのような社会を作っていきたいのかという実践的な人文社会的な知が必要となるのでは、と思います。
2つめは、選べる実弾です。別の進路を言葉で示すだけでは、対案は選択肢になりません。その進路に実際に賭けた事業があって、初めて選べます。反対することはできても、代わりに何を使うのかと問われて答えるものがなければ、判断は結局、受け入れるか何もしないかの二択に戻ってしまいます。
よって、ここには変わらず事業が必要です。その一形態として、未来についての思想を持つスタートアップがもっと出てきても良いのではと思います。安全保障をどうするのか、供給不足をどうしたいのか、その結果どういう社会を作りたいのか、といった日本や世界の未来の社会に向けた議論と事業がもっと必要ではないでしょうか。アメリカの投資テーゼを見る必要はあるかと思いますが、それに単に乗るのではなく、それを踏まえた上での自主的な思想が必要です。

まとめ
『テクノロジカル・リパブリック』が読まれること自体が問題ではなく、それを受け入れる体制が整っていないのが問題ではないか、という論を展開してきました。決して、米国の思想を拒否すれば良いというわけではないと思っています。良い地図は使えばよく、外から来た思想を読むこと自体は学びになりますし、同盟国の理解には努めるべきです。問題は、それを測るものさしが、こちらの手元にあるかどうか、そして無批判にその思想を受け入れるかどうかです。
摩擦は、選別が働いているときにだけ生まれます。そう考えれば、摩擦が起こるのは健全なことであり、その摩擦を作れるかどうかが、飲み込まれずに使うための条件なのだと思います。
そのためにはもっと社会の未来と規範を語っていくべきではないか、というのが本稿の仮説です。
※本稿は、前作の後半の議論を、独立した記事として読めるように再構成したものです。明治から現在までの経緯を含む全体の議論に興味があれば、そちらもご覧ください。
脚注
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Mullinsは加えてイデオロギーに論理的体系性を求めますが、そこまで体系だったイデオロギーはほとんどなく、バイブスに近いものもあるので今回は省きました。 ↩