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思想と資本 1 | 資本はいかにして思想から離れたか

1970年3月、大阪の千里丘陵で日本万国博覧会が開幕しました。

会場には、丹下健三の大屋根、岡本太郎の太陽の塔、黒川紀章らメタボリズムの建築家によるパビリオン、動く歩道、テレビ電話、ロボット、コンピュータで制御された広場が並びました。大阪万博は、単なる商品の展示会ではなく、情報社会と未来都市を、建築と技術によって一時的に作ってみせる試みでした。

Author: takato marui /  Wikimedia Commons CC BY-SA 2.0

ここで注目したいのは、展示の中身よりも、その前に起きていたことです。

今でも読まれる『知的生産の技術』を執筆した梅棹忠夫は、トフラーの『第三の波』より前の1963年に「情報産業論」を発表します。情報産業論はセンセーションを巻き起こし、梅棹らはその年に私的研究会を立ち上げ、政策にも伝播していきます。

そのわずか7年後、情報社会を論じていた学者たち自身が万博のテーマ検討や会場計画に加わり、その構想は、博覧会協会の計画と公的な予算、企業の出展判断、建築家への設計委託を経て、実際の建築群になっていました。書かれた思想が、いくつもの組織の決定を通り抜けて資金と人を動かし、最後には目に見える都市の姿になったのです。

本連載「思想と資本」が扱うのは、この思想から資本への変換です。より正確に言えば、思想そのものでも資本そのものでもなく、タイトルの「と」の部分、つまり両者をつなぐ仕組みを主題にします。万博で言えば、学者の構想を実行に変えていった、テーマ委員会から予算、出展、設計契約に至る「約束」の連なりがそれにあたります。

なお、ここで言う思想は、前回の記事と同じく、社会の仕組みについての認識(地図)、何を優先するかの規範や価値基準(ものさし)、社会をどう変えるかの方向と行動計画(進路)をひとまとまりにした思考の枠組みを指します。また資本は、出資、融資、公的な予算といった、将来の資源配分を拘束する資金的な約束を指します。

さて、日本では、未来を語る思想が衰えた、構想する力が枯れた、と言われることがあります。しかし、この連載はその見方を取りません。未来の地図と進路を描く構想は、いまも書かれ続けていますし、分野ごとに見れば、構想を実行へ変える仕組みもそれぞれに動いています。

国には戦略文書があり、研究開発には国家プロジェクトがあり、地域にも計画があります。細ったのは、思想そのものでも、分野ごとの仕組みでもなく、それらをつなぐ接続と、つながった道の上を思想と資金と人が行き来し続ける循環のほうだ、というのが本連載の仮説です。

思想の3つの要素で言えば、とりわけ細ったのは、ものさし、つまり何を優先するかの規範を公開の場で語り、交渉する営みだったと見ています。思想が実行へ流れるだけでなく、市場や社会からのフィードバックが思想へ戻って書き直しを促し、人もまた書く側と使う側を循環する。この往復が細っていく過程を、本連載では過去に遡ってみていきます。

この問いをいま考えるのは、未来の思想と、それを実現する資本、そして政治権力が、米国のシリコンバレーへ集中しつつあるからです。

以前の記事では、思想のインフラとしての機能について整理し、「未来の物語を資本にする仕組み」を持つVCが、その資本の力に振り回される形で危険なほどに考え方を大きくしていく様子について触れました。

そして前回の記事では、国家、統治、自由の意味までを含む米国のテクノロジー思想が、シリコンバレーとスタートアップの経路を通って日本へ流れ込みつつあること、そしてその流入が摩擦なく進む理由が、送り手の巧みさよりも、受け取る側の空白、つまりものさしについての自前の言論の不足にあることを論じました。

ただ、この空白は、輸入の経路が定着した近年に急に生じたものではなく、より長い時間をかけて作られてきたはずです。本連載は、その空白の来歴を、明治まで遡って確かめ、原因を突き止め、再構築するための土台作りの試みでもあります。言い換えれば、この状況に日本としてどう相対するかというのが、背景にある問題意識です。

この見方を、4回に分けて考えていきます。第1回の本稿では、主に資本の側、つまり思想を資金と組織の約束へ変えてきた仕組みに焦点を当て、明治から1980年代までを振り返り、思想と資本の接続と循環がどう作られ、何に支えられていたかを見ていきます。

なお、本連載が扱うのは、資源の配分や制度の設計へつながりうる思想であり、哲学や文芸批評そのものの価値を測る意図はありません。また、特定の陣営の努力不足を問う話でもなく、どの立場の思想であれ、それを約束へ変える仕組みが社会の側にあったかどうかという、構造の話です。

明治時代:思想と事業を同じ人々が担う

明治の日本は、思想と構想と事業が、役割を兼ねる同じ少数の人々の中で地続きだった時代でした。

福澤諭吉、森有礼、西周、中村正直らが参加した明六社には、官僚、教育者、学者、言論人が集まり、『明六雑誌』を通じて西洋の概念と制度を公共の議論へ広げました。渋沢栄一は、約500の企業や団体の設立・運営に関与し、あわせて約600の社会福祉、教育、国際交流に関する組織にも関わりました。銀行、鉄道、製紙、教育、病院という、現在なら別々の専門領域に分かれる仕事が、一つの社会像の中で扱われていたのです。西洋からの思想、つまり思想の中にある地図を翻訳し、ものさしを議論し、進路を自ら事業として実行するという一連の営みを、同じ世代の人々が同時に担っていたということです。書いた本人が実行するので、事業の成否という市場からのフィードバックも、そのまま思想の書き直しへ戻り、同じ人々の中で成立していたのです。

ここで注目しておきたいことがあります。渋沢が明治期から重ねてきたこうした実践は、後に『論語と算盤』(1916年)で実業家の心得として言語化され、いまもその文脈で読まれがちです。しかし彼が実際に手がけていたのは、日本の市場や産業の仕組みそのものの起業だったとも言えます。株式会社、銀行、取引所という、資金を集めて事業へ配る制度を国内に根づかせる仕事は、政府の法制整備や多くの実業家との共同作業でしたが、渋沢はその中心にいました。そして私益と公益の両立を図る考え方を、彼は合本主義という言葉で説明しています。

これは企業単位の理念や倫理綱領とは少し異なります。どんな市場や産業を新しく作り、その市場をどう機能させ、国の産業の成長をどこへ向けるかといったレイヤーの話であり、市場構想・産業構想の話です。

ただし、こうしたことが可能だった環境には注意するべきでしょう。明治は国家形成期であり、制度設計者、教育者、実業家という役割がまだ分化しきっておらず、構想を書く人と実行の権限を持つ人が、福澤の門下や渋沢の周囲といった少数の男性エリートの人的関係の中で重なっていたのです。冒頭の言葉で言えば、明治において思想を約束へ変えていたのは、整いつつあった会社制度や銀行制度と並んで、それらをまたいで動ける少数の人の関係でした。

そしてこの時代を単に美化するわけにもいきません。明治の思想と事業の結びつきは、企業と教育だけでなく、帝国の形成や軍備の拡張とも一体でした。またその担い手は、少数の男性エリートにほぼ限られており、女性や労働者や植民地の人々は、この結びつきの外に置かれていました。

人的関係が複数の役割を兼ねるこの形は、成立条件こそ異なるものの、現在の米国のテクノロジー産業を考える際の比較対象にもなります。この点は今後改めて扱います。

大正時代:社会運動の隆盛

大正期には、思想を社会へ実装する主体が増えました。普通選挙運動や労働運動が広がり、協同組合が組織され、国家と実業家以外にも、思想を制度と生活へ変える担い手が現れたのです。

たとえば賀川豊彦は、神戸のスラムでの救済活動から出発し、労働争議を指導し、購買組合の設立を主導し、自伝的小説『死線を越えて』(1920年)のベストセラーで得た資金を運動へ注いだと伝えられています。彼が設立を指導した購買組合は、現在のコープこうべへ続いています。ここで見ておきたいのは、思想から事業へ向かう道が、株式会社だけではなかったことです。協同組合、労働組合、社会事業もまた、社会構想を資金、人材、施設、日々の運営へ変える方法でした。国家とも大企業とも別の場所で事業を作るこの道は、この時期に形を持ち始めます。

そして賀川たちが作ったのは、利潤とは別のものさし、つまり相互扶助を軸に据えた事業の形でした。違うものさしを採れば、違う事業ができるということです。

担い手の広がりは、労働や協同組合にとどまりませんでした。1920年には平塚らいてうと市川房枝らが新婦人協会を設立し、女性が政治集会に参加することを禁じていた治安警察法第5条の改正を実現させます。明治の接続の外に置かれていた人々が、自ら制度を変える主体として現れ始めた時期でもあるということです。

担い手が広がったのは、事業と運動の側だけではありません。この時期には『中央公論』や『改造』といった総合雑誌が言論の市場を育て、書くことを職業とする知識人が現れ始めます。明治には同じ人々の中で重なっていた、思想を書く仕事と資金を動かす仕事が、それぞれ別の職業として立ち始めた時期でもあるということです。この分化が戦後にどう進んだかは、思想の側を扱う第2回で見ます。

1925年には普通選挙法(ただし女性は除かれたままでした)と治安維持法が、同じ年に成立しています。思想と社会の接続が広がるほど、その接続を誰が管理するのかという問題も大きくなっていたということです。この緊張は、次の戦時期に一つの極端な形をとることになります。

戦時期:国家による統一

1930年代後半から戦時期にかけて、この広がりは別の形に置き換えられます。1937年に設置された企画院は、生産力拡充計画や物資動員計画を通じて、物資と人員の配分権限を国家へ集中させようとしました。この時期に力を持った革新官僚と呼ばれる岸信介(のちの総理大臣)等の官僚たちは、産業、金融、労働、科学技術、国土計画を一体として扱い、企業の経営と国家目標を結びつけようとしました。歴史家のジャニス・ミムラは、この技術官僚たちによる国家改造の思想を「テクノファシズム」と呼んで分析しています(『帝国の計画とファシズム』。近年の米国のテクノファシズム論でも参照される系譜です)。思想と資本と事業をつなぐ権限は、このとき最も強く一箇所へ集中したのです。

しかしその接続は、公開された議論と選択の自由を欠いていました。異なる構想を比較する場は閉じられ、科学と言論は動員の対象になりました。もっとも、修正がまったく行われなかったわけではありません。輸送力と物資の不足によって、動員計画の数量や工程はたびたび変更と縮小を迫られています。抑圧されていたのは、こうした実務上の調整ではなく、戦争目的や動員そのものを公開の場で問い直し、別の構想を選び直す回路のほうでした。つまり戦時の日本にあったのは、極限まで強められた接続であって、フィードバックが思想へ戻り、構想が書き換えられていく循環ではありませんでした。

この経験から言えるのは、思想と資本を再び結びつければよい、という単純な話ではないということです。思想と資本と事業が接続していること自体は、その思想が望ましいことも、その実装が成功することも保証しません。日本は、両者が最も強く結びついた時代を一度経験しており、その帰結を知っています。必要なのは接続そのものではなく、一箇所へ集中させず、反論と修正が循環する形で接続することです。

その後、敗戦をはさみ、日本は復興の時期に向かいます。

戦後:共通目標による接続と循環が作動していた時代

1960年に閣議決定された国民所得倍増計画は、所得、雇用、住宅、道路、港湾、産業構造といった項目を、測定可能な目標として提示しました。通商産業省の産業政策も、鉄鋼、造船、自動車、化学、電機といった産業ごとに、設備投資、技術導入、輸出、生産性の向上を連動させていました。

この時期の将来像には、一つの大きな特徴がありました。未知の社会を一から選ぶというより、欧米にすでに存在していた生産技術、生活水準、社会基盤へ近づいていくという、キャッチアップ型の性格が強かったことです。最終的な生産性と生活水準の基準と目標を国外で観察できたため、方向の不確実性は相対的に小さく、主な問題は到達の速度と資源の配分になります。

この条件においては、官僚、銀行、企業、大学、労働者が、異なる利害を持ちながらも、共通の目標や指標を参照できます。成長の成果が雇用や所得、耐久消費財、社会基盤として広く現れるため、将来のために現在の資源を投入する政治的な合意も作りやすくなります。もちろん、このキャッチアップの達成は国内の制度だけで進んだわけではなく、冷戦下の国際環境、朝鮮戦争の特需、固定為替相場、海外技術の導入しやすさといった外部の条件にも支えられていました。

思想を実行へ変える仕組みも、この目標に合わせて組み上がっていました。国家は計画と審議会で方向を示し、銀行は継続的な取引を通じて企業の情報を蓄積しながら、融資に加えて経営の監視や危機時の調整も担い(この機能がどの企業にどこまで及んでいたかには、研究上の論争もあります)、企業は長期雇用と企業内訓練で人を抱えて技術を蓄積し、家計は所得の上昇と耐久消費財の購入でそれに応えました。国家計画、設備投資、融資、雇用、消費が、かなりの程度まで同じ将来像に接続していたのです。投資の成果が所得として家計へ戻り、消費と貯蓄がまた次の投資を支えるという循環も、確かに回っていました。そこには「未来は今よりもっと良くなる」といった希望もあったのではないかと思います。

経済社会学者のイェンス・ベッケルトは『Imagined Futures』(2016年)で、資本主義の活動を動かしているのは、客観的に予測された未来というより、人々が集合的に共有する「想像された未来」だと論じました。重要なのは想像の楽観性ではなく、多数の主体がそこへ資金と時間を投入できる程度に、その未来が信頼されていることです。追いつく時代の日本は、この共有と信頼が例外的に濃かった時代だったと言えます。

思想の一要素である「ものさし」が実際に公開の交渉で決められた先例もあります。1955年に設立された日本生産性本部は、当初は労働界全体の同意を得ておらず、「労働者に犠牲を強いる」という正面からの批判を受けながら、雇用の維持・拡大、労使の協力と協議、成果の公正な分配という生産性三原則を掲げ、労使学の三者構成の場を作りました。生産性を上げるとき、雇用と分配をどう扱うかという、事実を積んでも決着しない問いに、交渉の産物としての公開された優先順位を与えたのです。そしてこの合意は、長期雇用、企業内の人材育成、銀行を中心とする企業金融といった制度と組み合わさって実装されていきました。対立と交渉を経て、ものさしが公開の場で書き換えられるという循環の一つの形が、ここにはありました。

地図、ものさし、進路の3つの言葉で言えば、追いつく時代の日本は、地図を欧米という完成形から借り、ものさしを成長と生活水準の向上でほぼ合意し、進路を自明のものとして扱えました。もっとも、合意は完全ではありません。成長の費用と成果を誰が負い、誰が受け取るかをめぐって、公害、労働、地域格差の対立は続いていました。それでも、生産性と所得の上昇という主要な指標は、立場を越えて参照される目標になっていました。つまり、思想をひとまとまりで自前に作らなくても、仕組みが回る時代だったのです。

ここで見落とせないのは、官庁、銀行、企業をつなぐ調整の仕組み、すなわち審議会、業界団体、政策金融、メインバンクは確かにあったものの、それらが、追いつくという誰の目にも見える目的地を前提に組み上がっていたことです。こうした接続と循環が成立していた時代でした。

未来の地図と進路の豊富な供給と接続の固定化

欧米という参照先を超えた、社会全体の将来像を論じる言葉も、戦後には豊かに供給されていました。冒頭で触れた梅棹忠夫の「情報産業論」(1963年)は、情報を生産し流通させる産業が社会の中心へ移る姿を描いたものでした。林雄二郎は1969年の『情報化社会』でこの言葉を定着させ、オムロンの創業者立石一真らは1970年SINIC理論を提唱し、増田米二は「コンピュートピア」を構想し、堺屋太一は1985年の『知価革命』で、物質の量より知識や価値の創造が重要になる社会を描きました。この時期の日本は、情報社会論の輸入国であると同時に、供給国でもありました。

構想は言論にとどまりませんでした。1960年に登場したメタボリズムの建築家たちは、都市を完成した建築物の集合ではなく、人口、技術、生活の変化に応じて更新されるものとして構想しました。その構想が公共の場に姿を現したのが、冒頭で見た1970年の大阪万博です。万博の構想には梅棹、加藤秀俊(思想・文化評論家)、小松左京(SF作家)らも参加し、情報社会論と未来学が会場計画へ反映されました。

興味深いのは、彼らが万博を単純な技術礼賛の場にしようとしていたわけではないことです。梅棹らが参加した「万国博を考える会」(1964年)は、万博を日本製品の見本市に終わらせず、公害、資源、人口、格差といった問題を議論する場所にすべきだと主張しました。外部から批評していたメンバーの一部は、後にテーマ委員として実際の計画へ参加しています。公式テーマ「人類の進歩と調和」の作成過程でも、科学技術が誤って使われれば人類を破滅へ導きうることが論じられていました。この時点では、批評から構想へ、構想から企業や制度の設計へ向かう道が、まだ残っていました。

さらに1965年には野村総合研究所が設立され、1970年には三菱総合研究所が「独立」「学際」「未来志向」を掲げて設立されます。技術予測や社会構想を政策と企業へ提供する民間シンクタンクも成立していました。ただし、これらの多くは証券会社や企業グループの系列として生まれ、収益の中心は受託調査であり、この事業構造は、顧客の依頼から独立した公共的な課題設定を続けるうえでの制約にもなりえました。

これらの書き手と政策形成や実業の距離は、初めから近いものでした。林は経済企画庁で経済計画の策定に携わった官僚出身であり、堺屋も大阪万博を仕掛けた通産官僚の出身です。社会構想は審議会や長期計画へ入り、国家プロジェクトを通じて研究開発を動かしました。たとえば1982年に始まった第五世代コンピュータプロジェクトには11年間で約540億円が投じられ、通産省の主導のもと、既存の大手電機メーカー各社が研究員を送り出しました。そしてSINIC理論はオムロンという実業家によって推進されていきます。情報社会論は国家予算や企業と結びつき、研究組織を作り、企業の技術開発へ届いたのです。つまり、社会構想は官庁と国家プロジェクトへ、事業構想は自社へ流れました。

それぞれの思想は十分に働いていましたが、受け手は経路ごとにほぼ固定化されていきます。そうすると問題は、日本が未来の地図を描けなかったことではありません。構想の受け手が官庁、大企業、研究所、国家プロジェクトにあらかじめ定まっており、複数の企業、投資家、研究者が一緒になって議論・検討するような公開型の仮説になりにくかったことです。それが後に、空白を生む構造の元となったと考えています。

1980年代:目的地に追いつき、横断的な規範が語られなくなる

ここで、1970年代後半から1980年代に何が起きたかを見ておきます。この時期、日本の産業は追いつく側から、学ばれる側へ回り始めました。エズラ・ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(1979年)が広く読まれ、長期雇用、企業内訓練、品質管理、系列といった日本的経営が、研究と模倣の対象になります。ここまでの言葉で言えば、少なくとも製造業の生産性と生活水準の主要な指標において、日本は欧米という観察可能な目標にかなりの程度まで到達してしまったのです。戦後の接続を支えていた前提が、このとき徐々に失われ始めます。

象徴的なのが、生産の方法の輸出です。大野耐一の『トヨタ生産方式』(1978年)が国内での体系化にあたり、MITの国際自動車プログラムによる比較研究を経て「リーン生産方式」という名前で世界の標準的な語彙になりました。ただし、国境を越えて移転しやすかったのは、生産工程や品質管理といった、手順として切り出せる方法のほうでした。方法を支えていた長期雇用や企業内の技能形成、成果の分配といった制度は、各国の雇用法制や労使関係に依存するため、同じ形では移転しません。方法は世界のものになり、制度とものさしは国内に残りました(切り離された方法が、米国で顧客開発論やアジャイル開発と組み合わされ、2010年代に『リーン・スタートアップ』として日本へ戻ってくる話は後に見ます)。

では、国内に残った思想はどうなったのでしょうか。ここで、思想を地図、ものさし、進路に分けた冒頭の区別が効いてきます。地図と進路を描く構想は、1980年代にも公開で供給され続けていました。1980年の科学技術立国、1986年の前川レポート、1987年の第四次全国総合開発計画など、政府と審議会は将来構想を出し続けていますし、先ほど見た堺屋の『知価革命』も1985年の本です。細ったのは、ものさし、つまり資本側における規範や価値基準の議論のほうです。何を優先して資金を配るべきかという規範、特に複数の規範を横断的に比較し、生産性三原則のときのように公開の場で交渉され、書き換えられた例は、この時期以降、見つけにくくなっていきます。

その一つの理由として、何を優先するかは、長期雇用や企業金融といった制度、業界の慣行の中で暗黙に共有されていれば足りていて、明文化して外へ出す必要がなかったからです。社会構想は審議会と国家プロジェクトの中で、事業の構想は自社の中期計画の中で、金融の判断は系列の審査の中で流通し、経路の外で競われることは少なくなっていきました。規範や価値基準は各経路と業界の内側で共有され続けましたが、その外で語られることはなくなっていきました。

同じ時期に、経路を横断する場のほうも、性格を変えていきます。未来学の運動は1970年の万博を頂点として、オイルショック以後は退潮し、学者、官僚、企業、作家が一つのテーマ委員会で社会像を議論するような場は、その後再現されませんでした。生産性三原則も、交渉され続ける合意から、達成済みの前提へ変わっていきます。1975年の春闘を境に労使協調が定着すると、労使の場は、雇用と分配のものさしを問い直す交渉というより、賃上げ幅を調整する定型的な手続きへ近づいていきました。

もちろん、横の接続の場が消えたわけではありません。審議会も業界団体も残り、組織間の調整はむしろ濃密だったとも言われています。変わったのは場の役割で、種類の異なるステークホルダーが思想やそのものさしを交渉する場から、徐々に各業界で既定の前提のもとで利害を調整する経路になっていきました。

また業界の内側を見ると、フィードバックが改善へ戻る循環は活発に回り続けていました。系列の金融は企業の情報を蓄積し、企業内訓練は現場の学習を積み上げ、業界団体は取引の慣行を磨き続けます。80年代の製造業の強さは、この循環の成果でもあります。ただしその循環は、経路ごと、業界ごとの内側で完結しており、シェアや業界内の序列といった、それぞれの内側のものさしで測られていました。閉じたのは、測ることではなく、何で測るかを経路を跨いで交渉し、書き換えることのほうです。複数の規範を横断的に比較し、資本配分へ反映する場が弱くなったということです。はじめに述べた、分野ごとの仕組みはそれぞれに動いているのに、それらをつなぐ接続と循環が細っている、という現在の状態は、このときに形を持ち始めたと考えています。

そして、目的地への到達は、規範や価値基準が語られなくなったことの代償を大きくしました。追いつきが終われば、成長、雇用、分配、環境、国際協調といった複数の目標のどれを優先するかを、自前で選び直す必要が生じます。ところが、その選び直しに使える規範は、明文化された言葉としては手元になく、制度と慣行の中で暗黙に共有されているだけでした。目的地が共有されている間は効率的だったこの仕組みは、前提を選び直す必要が生じたとき、取り出して議論できる基準が手元にない、という形で現れます。

さらにその先には、もう一つの帰結があります。交渉されるものさしが失われたとき、閉じた経路同士をなお通約できる尺度や基準は、お金だけになっていきます。そして、お金だけが共通の尺度になると、資金は構想を経由する必要を失い、資本は資本の中で循環し始めます。事業会社が本業より金融収益を追った80年代末の財テクも、土地と株の値上がりがさらなる融資を呼んだバブルも、その最初の姿だったと見ることができます。思想と資金と人が往復するはずの循環から、思想と人が抜け落ち、資金だけが回るようになる。資本が思想から離れるとは、この状態を指しています。構想に値段がつくのではなく、構想抜きの価格だけが共通するものさしとして使われ、判断を下すようになると何が起きるかは、90年代以降を扱う回で見ることにします。

接続も循環もあった。ただし、それらは目的地に支えられていた

ここまでを整理します。日本に思想がなかったわけでも、思想が資源を動かさなかったわけでもありません。明治には思想家と実行者が同じ人的関係の中におり、大正には社会運動が加わるとともに、書く仕事と資金を動かす仕事の分化も始まりました。戦時には国家が束ねようとして大きな失敗へとつながりました。そして戦後には官庁、大企業、金融機関が構想を政策、研究開発、資金へ変えています。これらは単線的な発展の各段階というより、動員の力や包摂の範囲、公開性、修正のしやすさがそれぞれに異なる、別々の接続の形でした。

ただし、戦後のそれぞれの経路には、ほぼ決まった受け手がいました。官庁の構想は政策へ、大企業の構想は自社の研究開発へ、金融機関の判断は既存企業への資金供給へ向かいます。生産性本部や万博のように、経路を横断してものさしを交渉する場は確かにありましたが、それらは追いつきの途上という特別な時期に支えられた達成でした。目的地への到達とともに横の場が交渉の役割を失っていくと、縦の経路と、その内側で回る循環だけが残ります。ものさしは、公開の場で語られる言葉ではなく、制度と慣行の中の暗黙の了解になっていき、資本は資本の中で循環し始めます。ここにおいて、資本側が思想(特にものさし)から離れ始めたということです。

第1回はここまでです。次回は、この循環のもう一方の側、思想を作る側で何が起きていたかを見ていきます。