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思想と資本 2|日本で思想はいかにして資本から離れたか

1970年11月、臨時国会が召集されました。後に「公害国会」と呼ばれる国会です。この国会では公害関係の14法案が一気に成立し、翌年には環境庁が設置されました。

前回の冒頭で見た大阪万博と、同じ1970年のことでした。大阪では未来の都市が展示され、東京ではいまの被害を止めるための法律が作られていました。

2つは対照的な出来事のように見えます。万博が語ったのはこれからどんな社会を作るかという未来の構想であり、公害国会が確定させたのは、その被害が続く未来を許さないという規範だったからです。

後者は、法と行政と訴訟を通って、企業が実際に払う金額にまで翻訳されていきます。一方で、万博に象徴された、望ましい未来を描く構想は、この後の数十年をかけて、官の外で資金へ翻訳される道を少しずつ失っていきました。

本稿は、シリーズ「思想と資本」の第2回です。前回は主に資本の側から、思想を資金と組織の約束へ変えてきた仕組みを、明治から1980年代まで見ました。今回は反対に、思想の側から、資本との距離がどう変わったかを、特に戦後に焦点を当てて見ていきます。

一連の振り返りの中で、本稿が問いたいのは、戦後、書かれた思想がなぜ資本とつながらなくなったか、です。

「思想を書いていた人たち」を中心にしながら、主に2つのことを見ていきます。

  1. 1つめは、その思想を誰が使ったかです。官が使う場合、法廷や国会が制度へ変える場合、社会運動の当事者が内部で使う場合、企業が買う場合、読者が受け取る場合に分けて見ます。
  2. 2つめは、思想のどの部分が使われたかです。社会の認識を示す地図が使われたのか、規範を示すものさしが使われたのか、行動計画を示す進路が使われたのか、それとも3つをまとめた思想そのものが使われたのかを見ていきます。

本論に入る前に言葉の整理をさせてください。

思想とは前回と同じく、社会の仕組みについての認識(地図)、何を優先し、何を許さないかの規範や価値基準(ものさし)、社会をどう変えるかの方向と行動計画(進路)をひとまとまりにした思考の枠組みを指します。構想は、その思想を、特定の場所で実行できる案の形にしたものです。たとえば前回見た万博の会場計画や、政府の長期計画が構想です。

資本も前回と同じく、将来の資源配分を拘束する資金的な約束を指します。出資や公的な予算などです。ただし原稿料や受託費のような、過去の仕事への支払いはここには入りません。

戦後に思想が作られた6つの場

前回見てきたとおり、思想と資本は明治期において同じ人々の中で一体となって動き、大正には国家とも大企業とも別の担い手が現れ、太平洋戦争時の総動員で国家へ束ねられました。そして戦後、書く人と資金を動かす人の分業が本格的に進み、3つを束ねた思想を資金へ翻訳する回路が、官の外で徐々に細っていきます。

資本の動きはそうでした。しかし思想は戦後にも書かれ続けます。思想が書かれた場所のうち、本稿では、資本や国家との間に組織的なやりとりを持ちえた主要な6つの場に対象を絞ります。(1) 社会運動、(2) 協同組合と労働運動、(3) 学問と知識人、(4) 出版と論壇、(5) 政策を作る永田町と霞が関、(6) シンクタンクです。この基準で絞るのは、思想が資金や制度へ翻訳される可能性を検討するためです(資本の側で思想を扱っていた人たちは前回扱いました)。

本稿ではこれらについて、冒頭に挙げた2つの問い、つまり誰が思想を使ったかと、思想のどの部分が使われたかを順に見ていきます。

(1) 社会運動:ものさしが制度になり資本を縛る

国の制度を最も大きく動かしたのが、公害でした。水俣病の公式確認は1956年、原因企業の責任を認めた熊本地裁の判決は1973年です。誰が加害者で、誰が被害者で、いくら払うのかがはっきりするまでに17年かかりました。

ただし、その後の対応は迅速でした。1971年から1973年にかけて、新潟水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく、熊本水俣病の四訴訟で、原告勝訴の判決が相次ぎました。1972年には大気汚染防止法と水質汚濁防止法が改正されて無過失責任が導入され、過失を立証しなくても賠償を求められるようになります。翌1973年の公害健康被害補償法は、汚染物質を排出する企業から賦課金を集め、認定患者へ継続的に給付する仕組みを作ります。

ここで起きたことは、規範が企業の未来を縛り、その拘束が資金の流れに実際に翻訳された、ということです。なぜなら、その拘束が個々の企業の設備投資の判断を変えたからです。

規制というのは、望ましい未来を作るための一種の構想です。しかしそれは、あるかもしれない未来を構想するのではなく、あってはいけない未来を作らせないために、資本や未来を縛るものでした。

こうした思想を使ったのは、当事者の告発を経た法廷と国会でした。そして使われたのは、何を許さないかというものさしです。ただ注意したいのは、この経路では企業の資金も確かに動きましたが、それは資本を縛るものとして使われたということであり、そして主に縛れたのは、過去の被害から導かれた「あってはいけない未来」でした。

(2) 協同組合と労働運動:自前の資本を作り、内側で回した

社会運動には、資本を縛るのとは別の系譜もありました。自分たちで資本を作る側へ進んだ系譜です。たとえば生活クラブは、消費者が生産と流通の決定に参加する事業体として、いまも約42万人の組合員を抱えています。労働運動もまた、前回見た生産性三原則のように、雇用と分配のものさしを労使の交渉で書き換える経路を持っていました。利潤とは別のものさしで資源を配分する経路は、確かに存在します。

ただし、ここで作られた資本は、少なくとも本稿で挙げた例では、組合員や職場という当事者の内側で回るものでした。食卓や賃金は変えましたが、ここから社会全体の資源配分までを書き換えたとは、本稿の例だけでは言えません。

この系譜で思想を使ったのは、組合員や労働者という当事者自身でした。使われたのも、利潤とは別のものさしです。公害の系譜が資本と国家を外から縛る形で社会に接続したのに対し、この系譜は自前の資本を作る形で接続し、それを内側で回しました。自ら思想を作り、内側の資本を回す点で、外部の資本を動かす方法とは一線を画していました。

(3) 学問と知識人:買われたのは人と技術。書かれた思想の重心は地図へ移った

大学と資本のつながりは、少なくとも1955年から1975年にかけて、技術を介して大きく強まりました。1955年から1975年のあいだに、理工系の学部学生は約8万人から約38万人へ、およそ5倍になります。企業は研究室を通じて人材を受け取り、奨学寄附金や委託研究も実務として続きました。1960年代の大学闘争で「産学協同」への批判がスローガンになったこと自体、この結びつきが実在していた証拠です。

資本とのつながりの拡大は文系の学問でも起きていました。1960年から1975年の大学在籍者の増加のうち、83%は、実験設備がいらず低コストで定員を増やせる私立大学が引き受けています。ここも資本と距離を取ってはおらず、むしろ新卒一括採用という、国内で最も太い人の接続を持っていたと言えます。

ただし企業が受け取っていたのは、入学試験による選抜の結果と、訓練に耐える潜在能力です。学んだ中身のほうは、企業内訓練が入社後に教え直しました。企業が大学から買っていたのは選抜された人と作られた技術であって、学問によって作られた思想、つまり地図でもものさしでも進路でもなかったということです。

同時に、思想を書く側もまた、思想の全体を書く役目から退いていきました。理由は大きく2つあります。

1つめは、学問の細分化です。分化それ自体は研究が深まった結果でもありますが、丸山眞男は1961年の『日本の思想』で、日本の学問や組織が共通の根を持たないまま分かれるタコツボ型になっていると書きました。そう診断した丸山自身は、大学に籍を置きながら論壇で時代を総合的に論じる、学者と知識人を兼ねた書き手でした。

分化が進むほど、分野の間を訳す必要は増えます。しかしその仕事は、どの分野にも属さず、学問の世界でも評価されません。むしろ専門化して、国際的な論文誌に論文を発表したほうが評価されます。そうして学問は、総合的な思想を提供するところから一歩引き、大学人が知識人を兼ねる形も細っていきます。

2つめは、権力と距離を取る倫理です。戦前から戦中にかけて、大学、新聞、出版、学界の相当部分が国家総動員に組み込まれました。そのため戦後、知識の側には権力と距離を取る倫理が生まれます。たとえば学問の側では軍事との距離として現れますし、批評の側では国家との距離として現れました。

この2つが重なった結果、学者や知識人の側では、官に採用される社会の設計図や規範を書くことよりも、国家や資本、言語や権力関係を外側から分析する仕事の比重が増えます。思想の3つの要素で言えば、権力関係の地図を精密に描く仕事へ重心が移り、ものさしと進路を官に向けて書く仕事からは距離を取った、ということです。

もっとも、これは日本に限った話ではありませんし、単純な非政治化でもありません。家族や性や教育など、それまで政治の外側とされてきた領域が、新しく分析対象になったからです。変わったのは関心の量ではなく、向かう対象だったと言えるでしょう。そして、新たな分析は社会運動にもつながりました。学問や知識が「あってはいけない未来」を縛るために使われる一方、社会のなかでは、学者や知識人が資本や権力への批判を担当するという分業が定着していきます。

そして総合的に語る役割は、大学の外の在野の知識人、つまり次節で見る論壇に残っていきます。

(4) 出版と論壇:体系の地図を支えた読者市場の縮小と個人化

分野ごとに精密になっていく地図に対して、社会全体を一枚に描く地図は、どこで作られていたのでしょうか。それはおそらく、明治末の『中央公論』や大正期の『改造』といった総合雑誌以来、戦前から続いてきた出版と論壇の言論空間でしょう。

吉本隆明が『共同幻想論』(1968年)などで築いた思想は一世代の知識人の参照軸になり、その読者たちが次の時代の市場を用意しました。1983年には浅田彰の『構造と力』が現代思想の書物として異例の部数を売り、柄谷行人と浅田が1991年に創刊した『批評空間』も2002年まで続きます。難しい思想書が十数万部と読まれる読者市場が、日本には成立していました。

この論壇には、商品の市場とは別の機能がありました。社会全体を一枚に描く地図、つまり体系の地図を作る機能です。評論家は、細部に責任を持つ専門家とは異なり、政治、経済、文化、技術をまたいで知識をつなぎ、読者がいまどこに立っているのかを示しました。細かく見れば間違いも多いのですが、大きな見取り図を与えるという役目と需要があったのです。

この地図は出版に支えられていました。総合雑誌は、政治、経済、文学、科学、国際情勢を同じ誌面に並べ、一つの時代認識として読ませる編集をしていました。論争が増えて全体が見えにくくなると、複数の議論を整理して位置づける論壇時評が、独立した形式として成立します。つまり体系の地図は、評論家がその中身を提供するものの、編集者が知識をつなぎ、書評と時評が議論を位置づけ、誌面全体が一つの時代認識を作る制度だったとも言えます。戦後の日本で、官の外では、体系の地図を作る主な供給装置がここだったということです。

こうしたメディアを論じるとき、戦後により広い読者を持っていた新聞と放送を思い出す方もいるでしょう。しかし、日々の紙面や番組という形式が運んでいたのは、出来事の記録と、分野ごとの地図の断片でした。社説も、無署名の短い形式の中で、ものさしを論理的に展開するというより、すでにあるものさしを探して当てるものでした。企業が読者であると同時に広告主でもあるという構造も、資本への批判を難しくしていました。社会全体を一枚に描く仕事は、やはり出版と論壇に集中していたのではないか、と考えます。

一方で、論壇では、評価も対価もその論者個人に集まりました。論文や書籍、対談、講演など、基本的にはすべて評論家個人に向かいます。そうすると組織化したり、自ら実装を担うのではなく、個人の名前を出して、個人の作品として読者へ届けるほうが持続しやすい仕組みとなります。そこに加えて知識人さながらの権力と距離を取る倫理が重なり、思想の主な宛先は資本を動かす意思決定者ではなく、広く一般消費者に向けたものへとなっていきます。その結果、思想は社会を動かす道具というより、消費者向けの知的商品としての姿を強めていきます。

それと並行して、書き手の顔ぶれも変わっていきます。1960年代以降、総合雑誌には官僚、企業人、エコノミストが登場し、日本社会や産業の方向を論じるようになりました。学問と同様に専門分化していくなかで、「経済の人たちが経済の人たちに対して書く」「政策の人たちが政策の人たちに対して書く」という形で分かれ、共有される思想の地図は、分野ごとの地図へと分かれていきます。

(5) 政策:官が需要を抱え込んだ

次に政策です。明治以来、中央官庁が政策調査と利害調整と法案作成を一体で担ってきました。戦後もこの構造は変わらず、官僚が集めた情報と原案を与党が調整する形が中心です。審議会のような場もありますが、省庁が調査課題と最終報告を管理し、決定の責任を外部の権威で覆う「隠れみの」になっているという批判が古くからありました。

この構造には、成長期の政策調整を速く行えるという利点がありますが、副作用もあります。政党が独自の政策スタッフを育てる必要は小さくなり、企業も業界団体と省庁を通じて政策に参加できるため、公共の議論を経由する必要がなくなります。そして思想や構想そのものが官庁の中で作られました。

ここに、1955年から1993年まで実質的な政権交代がなかったという条件が重なります。政権を担う見込みが小さい政党には、政策綱領も、省庁を指揮する人材も、失敗したときの修正手続きも、準備する誘因が働きにくくなります。代わりに、政府の矛盾を告発し、政策を阻止し、支持者に原則を示すことが主要な活動になります。

政策案を作って意思決定者へ届ける組織群は、多くの国で用意されています。しかし日本ではその多くを官僚が引き受け、そして社会運動や評論の側が批判を担当する、という分業が定着していきます。

この領域では、思想の使い手も作り手も、官自身でした。地図で社会を認識し、ものさしで優先順位を定め、進路で行動計画を示すところまでを、一つのパッケージとして扱えたのは官だけです。ただし、その構想を官が外から買ったわけではありません。自前で作る形が中心でした。

(6) シンクタンク:企業と官の依頼に応え、地図を売った

最大最高のシンクタンクが霞が関だと言われるように、政策を一手に引き受けたのが官僚です。一方、米国などでは、官僚以外の政策提言の担い手としてシンクタンクがあり、思想の供給源ともなっています。ここも最後に見ておきます。

前回見たとおり、これに対して日本の主要なシンクタンクの多くは金融機関や大企業の関連組織として設立され、経済予測や受託調査では高い能力を持ちました。しかし、その生い立ち上、所属組織から独立して自ら問いを立て、政策を提案し、人材を政府へ送り込む機能は限られます。

企業がお金を払って買っていたのも、主に市場や経済がどう動くかという地図だけでした。シンクタンクは自前のものさしを持つ必要性に迫られず、むしろものさしを持たないからこそ、中立的な存在として政府系の案件も幅広く受けられるようになります。ただし、ここでの支払いは調査業務への対価であり、構想の実装へ将来の資源を配分する、本稿でいうところの資本ではありません。

そんな中、日本でも独立系シンクタンクを志向する試みもありましたが、寄付市場の薄さと、政策と行政を行き来する人材の少なさもあり、米国のシンクタンク群のような規模と層には未だ届いているとは言えません。

結果として日本では、官の外で、特定の発注者から独立して統治や産業の構想を作る仕事は、安定した職業として成立しにくく、誰かが本業の合間に個人の持ち出しで担いがちでした。松下幸之助が私財70億円を投じて1979年に設立した松下政経塾がその代表例ですが、育てたのは主に政治家であって、構想を作ること自体を職業にする場所ではありません。

こうして、官の外で思想を構想へ変え、その構想に資本をつける回路は、需要側と供給側の両方から細りました。

6者のまとめ

ここで検討した6つの場を横断すると、思想と資本の接続が消えたというより、接続のしかたが要素ごとに分かれたことが見えてきます。ものさしは法廷や国会を通じて資本を外から縛り、協同組合では当事者が内側の資本を回しました。企業が大学から受け取ったのは人と技術で、シンクタンクから買ったのは地図でした。出版で思想を支えたのは読者です。地図・ものさし・進路を一体の構想へ変え、予算をつける需要は、官が内側に抱え込みました。

官の外で細ったのは、3つを束ねた思想を、望ましい未来の構想と資金的な約束へ翻訳する回路です。需要側では、官が構想を内製しました。供給側では、学問の専門分化と権力から距離を取る倫理が進みました。出版では評価と対価が個人へ集まり、シンクタンクも自ら問いを立てるより発注者の問いに応える役割を担いました。

そのため官の外では、思想を書く人と資金を動かす人が接続しづらくなり、総合的な思想を描く人も徐々に減っていくことになります。そのなかで大きく成功したのは、望ましい未来を作る思想よりも、あってはいけない未来を示して資本を縛る思想でした。

この分業のなかで、1970年代の日本で最も大きく未来を語っていたのは、官の側でした。全国総合開発計画も、所得倍増計画も、『日本列島改造論』も、未来形の構想です。しかもそこには予算がついて動いていきます。個別の買い手と金額の確定を待たずに未来形の構想へ資金を流せたのは、官が自前の予算という回路を内側に持っていたからです。

ただし、官だけがこの回路を持つ構造は、官が弱まったときに代わりの担い手がいないという弱点を抱えます。では、1990年代以降、小さな政府への志向や経済低迷、官僚バッシングが重なったとき、未来を語って予算をつける機能はどう変わったのでしょうか。官の外に代わりの受け皿がなかったときに何が起きたかは、第4回で詳しく見ます。

未来を実験的に描く SF が残った

その一方で、読者市場には、いまの地図とも実行の進路とも違う形式が残っていました。あるかもしれない未来を思考実験として描くSFです。ものさしを含めた、現実社会のための未来の思想を描けなくなっていくにつれて、次第に人々は未来をフィクションへと託すようになっていきます。

第1回の万博に参加し、その3年後に『日本沈没』(1973年)を書いた小松左京の作品や海外でのSFの流れは、これからを語る一つの結節点となります。

次回からは、1990年代以降の現在までを見ます。第3回では、まずアメリカの状況を取り上げます。第1回で見た、思想を書く人と資金を動かす人の兼務が、米国でスタートアップという形式として再び現れ、SFのような未来像に実現の意思と資金を結びつける回路へ育っていく過程を見ていきます。それは他国の観察ではなく、いま日本へ思想を運び込んでいる発信源と経路を解剖することでもあります。