思想と資本 5|日本の未来を誰が構想するのか

1973年3月、小松左京の『日本沈没』が刊行されました。日本列島が地殻変動で海に沈み、人々が国土を離れなければならなくなる未来を描いた小説です。その年のうちに上下巻合わせて380万部以上が売れ、日本という国の先行きと在り方が、小説を通じて広く読まれていたことがうかがえます。
小松左京は、第1回で取り上げた大阪万博の理念づくりにも参加していた人物です。そして『日本沈没』は万博の3年後に刊行されました。
ここで注目したいのは、この頃は未来を世に問うことができていた、ということです。
しかし1990年代以降、日本国内で社会の未来を語ってきた担い手の役割が弱まるとともに、書かれた構想を議論し、投資や政策につなぐ経路も細ってきたと考えています。一方で、シリコンバレーのスタートアップ関係者たちが、その莫大な資本力とともに、新たな思想の語り手として存在感を増してきました。いわば、国内で対案を育てる力が弱まったところへ、資本を伴う海外の思想が入ってきている、という構造です。これは過去の回や別の記事でも考えてきました。
本稿は、連載「思想と資本」の第5回です。これまでの記事では、未来の思想が投資や契約、政策といった「約束」へ変わる仕組みをたどってきました。今回は1990年代以降の日本を振り返り、社会の長期的な未来を語る活動と、それを受け止める仕組みの変化を考えます。その上で、今求められている担い手について考えます。
社会の構想を語りにくくなった既存の語り手たち
冷戦終結後の1990年代以降、官僚や経営者、知識人が引き受ける問いや課題が大きく変わっていきました。そうした背景から、日本の社会において、社会の将来像を語ることも徐々に少なくなり、さらにそれらの経路が弱まってきたように思います。

それぞれをそれぞれの角度から見ていきます。
(1) 官: 役割を縮小していった
これまでの連載で見てきたように、日本においては、主に未来の構想を示すのは官が行っていました。しかしその役割は、ソビエトの失敗によって冷戦が終結して以降、社会主義的な政策の不合理さに合意がなされ、小さな政府への志向が世界的に強まると共に、力を民間企業や市民へと移すようになってきます。
また同時期の日本では、1990年代のバブル崩壊後の不況による行政への信頼の低下や、官僚の汚職や不祥事、天下りの仕組みが明るみに出ることで権力を失いつつありました。
構想という観点での日本における官の役割の変化は、1999年の「経済社会のあるべき姿と経済新生の政策方針」にも表れています。この文書は、政府主導から独立した個人を基盤とする自由経済への転換を示すため、あえて「計画」という名称を使わなかったと説明しています。政府が進路を示すことと、個人や企業の選択を尊重することの関係を、政府自身が問い直していた時期だったことが垣間見れます。
さらに2001年の中央省庁改革では、政府の経済運営の仕組みも変わります。元内閣府審議官の前川守による経済計画についての振り返りでは、市場と民間の役割が強まり、従来型の経済計画は役割を終えたという認識が高まったと整理されています。
官が示す構想の範囲や実効性が限られてきたのがこの頃でした。であれば他の担い手、たとえば民間企業や市民が自ら構想を描き、その実現を担うようになるはずでした。
(2) 経済界: 経営の立て直しを優先していた
しかしその担い手となる候補だった民間企業や銀行は、同時期にバブル崩壊後後始末に追われることになります。不良債権の処理に10年以上を費やしたとも言われており、官とともに未来の構想とその実現を担う候補だった民間が、過去の投資の後始末に追われていたということです。
日本において主な資本の担い手であった銀行には、企業の長期的な事業構想を理解し、資金を出して有事に支える役割がありました。しかしその銀行も、こうした危機の当事者になったことが、中長期的な構想を練ることに加え、それを長期の資金で支えることも難しくしたのではないかと思います。
また同時期にはグローバリゼーションが進んだことも、民間企業が日本の思想や構想から離れる一員でもあったでしょう。自社の成長のために海外の市場を重視し、売上の多くが海外からになると、民間企業が日本社会の構想を行う必要性は相対的に薄れていきます。国の成長と企業の成長がアラインしづらくなると、企業は国にコミットしづらくなる、ということです。
こうした背景から、経営の立て直しや競争力の強化が長く課題になるなかで、企業を成長させた先にどのような日本の社会を作るかという問いは、経済界にとっても担いづらかった構造がありました。
(3) 論壇: 土台となる出版市場が縮小した
戦後、官や財界とは異なる立場から、社会の望ましい姿を論じ、市民に知らせてきたのが、知識人や批評の書き手たちでした。
しかしその活躍を支える出版も、1990年代以降に厳しい環境に置かれます。紙の出版市場は1996年をピークに縮小し、雑誌の部数も徐々に減っていきます。
特に総合誌の編集部が担っていたのは、分野の違う議論を同じ読者に届ける仕事でした。経済だけではなく、政治や文化、生活の側から読み直せるようにする場がありました。そのような雑誌が減れば、個々の発信が続いても、異なる立場から社会像を比べる機会は減ることになります。
一方で同時期、社会で大きな流れになってきたのが、「自己責任」といった言葉を代表とする、個人への責任の委託です。集団から離れ、個人として生きていくことが重視されるようになると、論壇の言葉も徐々に個人へと向いていくことになり、「自己啓発」などが盛んになります。
もちろん、個人の悩みや生き方を扱うことは、社会について考える入り口になります。ただ、読者が自分の暮らしをよりよくするための経路として、集団としての社会を良くする経路と、自分とその周囲だけがサバイバルすることへの経路があるとき、この頃の日本は多くの場合、後者の言葉が多くなっていったように思います。そうすると、次第に意識から「社会」が相対的に薄れていくことにもなり、その結果、論壇の言葉も個人向けへと最適化されていくことになります。
そして資本が大きな存在感を持ち始める情勢の中、知識人や批評家の構想が投資や政策につながらなければ、市民は論壇での思想に実効性を感じられなくなり、その思想も使われなくなっていきます。社会の将来像を描く営みの衰えに加えて、この循環の弱まりもこの時期に重なっていたのではないかと考えています。
未来を語る役割を引き受けたスタートアップ
そうしたなかで、2010年代以降、未来を描くことを仕事にする人たち、つまりスタートアップの起業家と、その事業に資金を出す投資家が目立つようになってきます。
その語りは、「最新の技術」を使って、いまは実現していない暮らしや産業といった未来の構想を語り、その物語によって資金を集めていきます。そして実際に、その資金によって製品を作っていくことで、未来の構想と、いま始められる仕事がつながって見せることができました。

たとえば、イーロン・マスクが2006年に公表したテスラのマスタープランは、高価格のスポーツカーから始め、その資金でより手頃な車を作るという事業の道筋を示していました。その先には、化石燃料に依存する経済から、太陽光による電力を使う経済への移行が書かれています。ここでは自動車を何台売るかという計画に加えて、社会のエネルギーの在り方をどう変えるかという構想も含まれています。買う人にとっては、車の購入が望ましい未来への参加にもなり、働く人にとっては、製品の開発が社会を変える仕事にも見えてくるといった作用もあります。
そして構想を語る本人が実行にも責任を持って進めることは、その言葉に具体性と説得力を与えます。完成した製品や使えるサービスがあれば、実現可能性の一部を確かめられますし、リスクを背負って実行をしていることでその本気度を示せます。こうしたリスクテイクは、その取り組みに言論とは異なる説得力を持たせることにもなったでしょう。
そしてその試みが成功すれば、思想は資本へと繋がります。そして資本を得ると、その思想を実現するための推進力を得られるようになり、その循環が回り始めます。そうすると、お金というものさしが優位な社会においては、資本を有した思想が正解のようにも見えてきて、さらに資本が集まってくる、そんな思想と資本の関係が成立するようになります。実際、GoogleやFacebookといった大きな成功例が出てきたことが、そのサイクルを大きくしていきました。
さらに政府は、そうした取り組みを次の経済成長の糧にしようと注目し始めるようになり、次第に支援も始めるようになります。実際、日本でも2010年代中盤から政府がその支援を強めるようになりました。さらにその波に乗って、大企業などもオープンイノベーションなどを掲げて、スタートアップとの連携を進めるようになります。
ここで、従来の語り手と新しい語り手の関係の変化を見ることができます。かつて未来の構想を描いていた官や大企業が、起業家や投資家が示す未来の構想の実現を支える側になっていた、という変化です。未来を構想し実現するうえで、スタートアップへの期待を強めていった、とも言えます。
スタートアップは未来の構築に関わる機会も提供できた
併せて個人も動きます。
2010年代中盤から、スタートアップとして起業することや、スタートアップに転職することを一定数の人たちが考え始めたのは、そこに未来を見たからではないでしょうか。さらにそこに対する経済的リターンも示すこともできました。
また起業までいかずとも、さきほどテスラの車を買うことが未来に参加することであり、そこで働くこともまた参加の一形態だと書きましたが、まさにこうした個人として未来に関わる機会を提供できたのがスタートアップでした。スタートアップの製品を使うこと自体ががかっこいい、そんな雰囲気です。
つまりスタートアップは、望ましい未来を語るだけでなく、そこに個人として参加する様々な方法も提供していました。 官や経済界、個人といった人たちが、スタートアップに未来を託すようになる理由の一つも、そうした関係構築の回路が存在していたことにもあると考えています。
シリコンバレーとの経路の確立と思想の流入
日本のスタートアップ自身が未来の構想を学ぶ経路の一つがシリコンバレーでした。新しい事業をどう始め、どのように資金を集め、成長させるかを学ぶために、その発信に注目し、ときには神託のように扱われ、「シリコンバレー流」といった言葉や方法論が輸入されるようになり、それは今も続いています。『リーン・スタートアップ』や『ゼロ・トゥ・ワン』がそれらの代表例です。
そうした経路を通して、現在、方法論だけではなく、資本と思想がセットになって入ってきていること、そしてその思想の一部が、そのまま受け取れるとリスクになりうることは別の記事でも書いたとおりです。
ただ、国内で対案となる未来の思想や構想が十分に育っていないと、その事業や思想を一緒に、かつ無批判に輸入してしまうことになりかねません。そして現状を考えると、海外から来る構想に判断を委ねやすくなっている状態でもあると思っています。
であれば今、そうした海外の思想とは異なる、オルタナティブとなる思想を書く人と、それを実弾として有効化するための経路を強化していく両方が求められていると考えています。

新しい思想とその語り手:思想のスタートアップ
では誰がその思想を書くべきなのでしょうか。そのためにも今一度歴史を振り返ります。
ここまでの連載で、第1回と第2回では思想と資本がどう日本で離れていったのか、第3回でアメリカで思想と資本がどう融合していったのか、第4回で日本のスタートアップで思想と資本がなぜ交わらなかったのかを見てきました。
そして明治6年に明六社が立ち上がり、1874年に『明六雑誌』が創刊されたことは第1回で触れました。
ここで注目したいのは、当時、彼らはそうした思想を誰かに依頼されて書いていたわけではありませんし、政府の諮問機関でもなければ、国民の代表でもなかったということです。自分たちで問いを立てた、小さな結社から始まりました。
同様に第1回で見た大阪万博の起点は、1963年に梅棹忠夫らが立ち上げた私的研究会でした。研究会の構想は7年後、公的な予算と企業の出展判断を経て、実際の建築群になりました。第4回で取り上げた1971年の『ベンチャー・ビジネス』も学者3人が書いた一冊の本です。
その誰もが、誰からも頼まれないまま思想を書き始めて、それを世に問い、検証され、そして良いものが残って広がっていきました。それはスタートアップと同じようにです。
であればまさに今、新たな思想を生み、それを育てる循環を作るために、「思想のスタートアップ」が求められているのではないでしょうか。
それはスタートアップが思想を語るのではなく、誰かが思想(認識、規範、行動方針など)を改めてスタートアップ的なプロジェクトとして書き始めることです。それは資本がなくてもできるはずですし、世界秩序が大きく変わっていく中だからこそ、再び求められ始めているように感じています。
実際、アメリカを見ていると、資本市場とは異なる動きをする財団等からシンクタンクにお金が入り、新しい思想が構築されつつあります(たとえばこちらの記事で紹介したものなど)。そしてそれらの思想がまさに、米国内、そして世界の中で、次の秩序構築に向けて競争し合っている状況です。

誰かが描いた思想が世に普及しなくても、そうした取り組みがいくつもあり、書かれた構想が議論や実行の場に届けば、シリコンバレーから来た思想も、唯一の進路ではなく、比べて修正できる構想の一つになります。オルタナティブを持つ意味は、選択ができることと、比較して議論ができることにあります。
逆に今、自分たちの思想や構想を育てないという選択も、決して中立とは言えないと考えています。それがなければ他者の思想やそのものさしに判断を委ねやすくなります。あるいは、共通の尺度として使いやすい「お金」ばかりが重視されることになるでしょう。それではおそらく日本は弱い立場に置かれていきます。

だからこそ思想を書くことや構想を描くことに、もっと多くの人が挑戦していくことや、そうした人たちをもっと応援していくようなことも重要だろうと思っています。
日本でも、そうした思想を書き、その思想を実現するための構想を作る人たちに、もっと多くの支援が必要だと考えています。書かれた構想に営利・非営利両方の資本をつけることに加えて、実行の結果を議論し、構想の書き直しにつなげるところまで支える必要があるのではないでしょうか。
そうした仕組みを構築していくことにこそ、現状の思想競争の中で日本が存在感を発揮し、次の世界秩序の構築への貢献になっていくのでは、と思っています。
米国では、かつての明治時代のように、思想と資本と政治が一体となりつつあります。政府が起業家や投資家が示す未来の構想の実現を支える側にとどまらず、むしろ起業家や投資家が政府を飲み込み、方針を示すぐらいの影響力を持ち始めています。
その富と権力の独占の形が決して良いと思わないのであれば、そうではない思想と構想を描く人を増やし、そしてその思想と資本と政治と市民などの様々なステークホルダーのつながりを強めていくことや、別の形を模索することでしかある意味対抗はできません。

米国に比べると小さな試みかもしれません。しかし、明六社の明六雑誌はたった2年で終わったスタートアップのようなものだったにもかかわらず、その雑誌の残した言葉や影響は大きく、今も残っています。そうしたことを考えれば、構想を語る役割は、従来の語り手も、そしてこれからの個人も、もう一度引き受けられるはずです。
日本や世界の未来の思想を複数の人たちが作り、それをつないでいくこと。そうした取り組みがまさに今求められているように思います。