大きな山を指定して、AIと一緒に登り方を学ぶ —— 2026年度アントレプレナー道場の振り返り

東京大学アントレプレナー道場というアントレプレナーシップ教育の2026年度授業が終わりました。
前半のS1(4月〜6月)は講義とゲスト講演を中心とした7回、後半のS2(6月〜7月)はチームで実践する7回という構成です。今年はこの両方で、授業の設計を大きく変えました。本稿はその記録と振り返りです。
背景と文脈
まず文脈として、昨年末に「生成AIによってアントレプレナーシップ教育はどう変わるか」という記事を書きました。生成AIを使えば、学生は30分でそれなりの見栄えのピッチ資料を作れてしまいます。学生の努力や能力と成果物の質が大きく乖離しやすくなったということです。さらに学生の使える生成AIのプランでも、成果物の質は大きく変わります。これによりAIへの課金やAIリテラシーの差が成果物に大きく影響することになりました。しかしAIの授業での利用を制約したままでは、現実のアントレプレナーシップが求められるシーンとの乖離が大きくなってしまいます。
また、アントレプレナーシップ教育には広義と狭義があるという説明をしてきましたが、本授業は比較的狭義のアントレプレナーシップ寄りでありつつ、広義のアントレプレナーシップも涵養を目指す、という設計の授業です。ビジネスの知識やスキルを伝えるのではなく、それらが包含されるような、他の領域でも使える仮説検証や資源の獲得といった資質・能力の涵養を目的としていますが、比較的狭義寄りではあります。そして狭義のアントレプレナーシップを扱う際にも、起業全般ではなく、ハイグロース・スタートアップを前提とした話をしています。
こうした環境下でアントレプレナーシップ教育は何を教え、何を評価するべきなのか。そんな話で年末の記事は終わっていましたが、その問いに対する2026年時点の私たちなりの取り組みの記録として共有しておきます。ただし、すべての地域や教育目的で応用できるものではない点はあらかじめお断りしておきます。
今年の大きな変更:構想とAI
変更は大きく三つあります。

第一に、教える重心を「足元の課題を見つけて仮説検証する」ことから、「大きな構想を描き、そこに至る戦略を設計する」ことへ移しました。
従前から述べているとおり、従来のリーンスタートアップやデザイン思考のような方法論は、日本のハイグロース・スタートアップを生み出すという観点は限界があると思っています。身近なアイデアを起点になりがちなのと、検証しているうちに小さな事業に収束しがちだからです。
もちろん、隠れた課題を探し、解決策を考え、それらを検証するという進め方は、スモールビジネスの起業には今も有効ですし、大きな構想を描いたとしても、足元は仮説検証の連続であることに変わりはありません。それに仮説検証の方法論は教えやすいという点も、教員としては嬉しいことです。
それでも、日本のスタートアップエコシステムが置かれた環境や、後述するようなAIの発展、そして仮説検証の教えやすさ=良いを考えると、まず「どの山に登るか」を決めることの重要性が増している、というのが私の現状認識です(Fit Journey v2参照)。
以上は狭義のアントレプレナーシップについての話ですが、広義のアントレプレナーシップを見てみても同様の状況のように思っています。現在の日本の産業構想や地域の構想、国家戦略など、人口が縮小していく中でどのように新しい構図を描き、それを実装していくのかや、国際秩序が揺れる中でどのような位置を気づいてくのかといった面で、様々な大きな構想が求められ始めているからです。
第二に、S2では教員側から「ミッション」を指定するようにしました。 たとえば「15年以内に時価総額3000億円以上になる事業を、海中ロボットの領域で作る」といった大きな目標と制約をあらかじめ用意し、学生はその中から選んで挑んでもらうようにしました。山の大きさは変えられませんが、登り方は自由、という形です。
もともと数年前から、S2のワークショップでは学生の完全に自由なアイデアから始めるのをやめていました。自由にすると、インタビューなどの仮説検証がしづらいアイデアが出てきやすいことが理由です。インタビューによる仮説検証をしてほしかったので、自由なアイデアを選ぶことを制限していました(とはいえ領域が同じであればアイデアは改変しても構わないとしていました)。
こうした制約の副作用としては、学生の皆さんが自分のアイデアではないことで、やる気が削がれる人が出てきたり、リーダーによるチームビルディングが経験しづらくなるところにあります。しかしそのデメリットを持ってでも仮説検証の体験を重視していました。そこから今年は、インタビューによる仮説検証の経験の優先度を下げて、大きな目標に挑むことの経験の優先度を上げました。
なお、そうした大きな目標を学生の皆さんに設定してもらうこともできたかもしれませんが、社会人の皆さんの起業支援をしていても、「どの山に登るか」を決めるのは大変難しい仕事です。だからこそ授業では山の選定を教員が引き受け、学生には「大きな山の登り方」の訓練に集中してもらうことにしました。
それに自分のアイデアを試す機会は、学内の課外活動にも学外のプログラムにも増えてきています。であれば、大学の授業は、個人ではなかなか選びにくい、大きな社会的意義のある山を提示する場であるほうが良いのではないか、と考えました。大きな山の登り方を短期間で学ぶのは従来は難しいことでしたが、AIを使えば加速できるのではないか、という見込みもありました。
第三に、授業全体をAIの利用を前提に組み直しました。 調査、模擬インタビュー、戦略立案、資金調達計画、ピッチ資料の作成までAIを組み込み、さらに授業用のウェブアプリを5つほど自作して、座学と実践の間に「模擬実践」の段階を挟んでいます。
この三つは独立した変更ではなく、生成AIが調査や検証試作のコストを下げたからこそ、どこへ向かうかを決める力が相対的に希少になり、教育の重心もそちらへ移したということです。そして同じ生成AIのおかげで、その重心移動を支える教材やアプリを教員自身が作れるようになりました。「AIで探索と試作の速度を上げ、その分だけ人間には山の選択と戦略と判断を求める」という方針を、S1とS2に分けて実装したのが今年の授業です。
S1:大きな構想を描くことの強調
S1は基礎知識とアンラーンのための学期と定めています。後者について補足すると、多くの学生は、スタートアップ的なビジネスについて「知らない」のではなく、「間違った知識を持っている」ため、まずそれをほぐす必要があります。この位置づけは従来と変わりません。7回の講義とゲスト講演という器も変えず、中身を大きく2つ入れ替えました。
(1) 市場と戦略
一つめは、市場と戦略性の重視です。FoundXで使ってきた「スタートアップ・フィット・ジャーニー」の旧版は、顧客から始まり、課題、解決策、製品、市場へと積み上がる道筋でした。今年はその前に「市場の選定(Market)」と「戦略の構築(Market/Strategy Fit)」の二段階を足した新版を使っています。マクロな設定は、あとから変更するのが難しいからです。市場を間違えたら、その後どれだけミクロな検証を頑張っても、高成長の可能性は極めて低くなります。
授業では、「100点満点のテストで95点を取るか、1兆点満点のテストで95億点を取るか」という話を何度かしました。スタートアップの物差しは成功確率ではなく、成功時の大きさです。決められた満点の中で取りこぼさない訓練を積んできた東京大学の学生にとって、これはおそらく最もアンラーンが必要な部分です。
学期末の振り返りには、「これまでは与えられた課題にどれだけ良い結果を出せるかを重視していたが、そもそもどの課題に取り組むかという視点はあまり持っていなかった」といった記述もありました。知識の獲得としてではなく、自分がどの物差しを使っていたかへの気づきとして返ってきたのは、アンラーンを狙った授業として狙いに近い反応でした。
(2) AIによる模擬実践
二つめは、AIによる模擬実践です。今年はWebアプリを私の方で自作して、授業と宿題に組み込みました。たとえば以下のようなものです。
- 講義をリアルタイムで文字起こしし、学生の質問投稿にAIが改善提案をする講義用アプリ
- AIを相手にセールスや投資判断を体験するインタビューアプリ
- 起業の流れを6ステップで疑似体験するアプリ (Fit Journey 体験アプリ)
- 市場選定や戦略立案のためのプロンプト集

Fit Journey シミュレーション

インタビュー道場
AI アプリを使うメリットはいくつかあると考えています。
従来は、座学で学んだ次の一歩がいきなり実戦でした(授業内で学生同士の模擬訓練はしていましたが)。その間に、失敗のコストがほぼゼロの練習場を一つ挟んだことになります。
AIを使った模擬実践のメリットは、AIが随時アドバイスをくれる点にあります。たとえばインタビューアプリは、質問の改善案や「その質問では駄目な理由」をその場で返してくれます。学生の振り返りで典型的だったのは、「自分では良い質問だと思っていても、相手を誘導してしまったり、本当に困っていることまで深掘りできなかったりした」というものです。座学で「誘導する質問をしてはいけません」と説明することはできますが、自分が誘導していることには、指摘されるまで気づけません。しかし教員が一人一人についてそれを指摘するのは難しいので、AIなどを使うと補助的に使えるという判断でした。

個人データを集めない仕組みや、学生の入力内容を運営側が見ない設計にも配慮しました(宿題をクリアするとクリアコードが発行され、Google Formsで報告してもらう、など)。なお、アプリ開発という観点では、戦略系のアプリはもう一つ作っていたものの、うまく作れずに諦めました。抽象度の高い思考の相手をAIにさせるのは、まだ難しい印象でした。
印象的だったのは、AIの限界への気づきです。時価総額3000億円という仮想条件でAIを使って市場選定をする宿題に対して、ある学生は「AIに頼ると、大きく確実な市場の平均的なアイデアに流れやすい」と、自分で何度も回した感触として書いてきました。AIの活用を扱う授業の成果が、AIの限界の体感だったというのは少し逆説的ですが、順当な結果でもあると思います。
細かなTipsですが、リフレクションシートの設問をAIと一緒に考えられるのは助かりました。リフレクションは、どういう設問を置くかで学習者の学びがずいぶん変わります。従来はチーム内で検討していたリフレクションの設問設計を、いつでも相談できて、教育学的な知見を踏まえて返してくれるAIと行えるのは助かりました。
S2:山を指定し、AIとともに登る
S2はワークショップ形式の7回です。学生はチームに分かれ、初期調査から始めて、事業仮説作り、戦略とプロトタイプ計画、資金調達計画とピッチ資料の作成へと進みます。最終2回は現役の起業家5人・投資家5人を審査員に招き、ジグソー法を用いて学生全員が個人でピッチを行いました。起業家・投資家という実社会の評価者に仮説をぶつける経験、教育学でいう真正性の高い評価(authentic assessment)のためです。
そのうえで今年は以下のような変更を行いました。

(1) ミッションの設計
用意したミッションは、海×ロボット、天然水素、宇宙、風力、素材×AI、住宅×エネルギーといったディープテック寄りの領域が中心です。営利のミッションには「15年以内に時価総額3000億円以上」という共通の制約を課しました(社会起業系には別の形の大きな目標を置いています)。各ミッションには、プロジェクト案の例、競合、初期に検証すべき仮説、10万円程度で作れるプロトタイプ案、参考文献までを一覧にしたシートを付けています。プロジェクト案は変更できますが、領域と制約条件は変えられないものとしました。

(2) 各ステップへのAIの組み込み
AIは各ステップに組み込みました。調査ではNotebookLMと、授業用に用意した「AI Wiki」を使います。これはプロンプトテンプレート集を含む調査・整理環境で、学生がAIに何かを聞くと、そのすべてのやりとりがWikiに保存され、Wikiのページが一定数溜まるとLLMが自動で洞察を整理する、いわばLLM Wikiのグループ版のようなものです。AIはOpenRouter経由で、その時々で速度と性能とコストの良いものをこちらで選定しています。

結果
傾向として、従来よりも時間が足りないなという印象はありました。やはり、専門外のことに対して AI を使ってもキャッチアップするのは非常に難しいというのはあるようです。一方で、AI がない時代なら、ここまでちゃんとした調査はできなかっただろうなと思います。
学生の皆さんの学びも少し変わったように思います。「仮説検証の重要性に気づいた」という従来の学びよりは、「高い目標でもちゃんと調べて登っていけば、ある程度のところまで行けるんだ」という感覚が身についたようなコメントがありました。これは授業の設計通りだとも思います。
審査員側の反応も変わりました。昨年度までは、学生の「身の回りの課題アプリ」と投資家が普段接しているアイデアとの差が大きすぎるせいか、「コメントが難しい」と言われていました。今年は「コメントはしやすかったものの、同じ俎上に載った分、粗が目立つ」という感想をもらいました。だからこそ、もっとインタビューや現場に行って解像度を上げてほしい、というようなコメントもありました。これはもう少し時間があればできるのかもしれません。とはいえ、通常の起業家と同じ俎上で評価されるようになったこと自体が、一つの前進だと受け止めています。
削いだもの、難しかったこと

一方で、この設計のために削いだものもあります。
まず、ゼロからアイデアを作る練習はできません。ミッションは教員が指定するからです。加えて、チームの組成も運営側で行ったため、自ら仲間を集めてチームを作っていく経験もありません(ただしチーム内でのチームワークは当然必要です)。
そうした点は、自分のアイデアを試す機会や仲間を見つける機会が、学内の課外活動や学外のプログラムに比較的多くあるからですが、そうした機会に恵まれた東京だからこそ削れた、という面は大いにあると思います。実際、「自分のアイデアを試したい人は他の授業や課外活動で」という説明はしたものの、この変更への不満や辞退者があったのも事実です。それでも、必要とされるスキルが変わってきているのであれば、評判よりも必要なスキルのほうを伝えるべきだと判断しています。
最も難しかったのはインタビューです。昨年度までは学生自身が顧客になり得るアイデアを指定していたため、顧客インタビューを通した仮説検証がしやすかったのですが、今年はミッション志向のディープテック領域が中心で、インタビュー相手にたどり着くこと自体が難しくなりました。今年も一社にご協力いただき、実際にインタビューを実施できたチームはあったものの、少し難しい印象でした。来年度は、東大の技術に関連したミッションに絞る、ミッションの種類を減らして顧客候補の協力を事前に依頼しておく、といった工夫で多少は緩和できるかもしれません。
生成AIとアントレプレナーシップ教育

今年の経験から考えたことを最後にまとめておきます。
1つめに、教員が自分でインタラクティブな教材を作れるようになったことは大きいと思います。これまで教育のソフトウェアは、ZoomやLMSのような効率化の道具でした。決まった手順を速く正確に処理しますが、授業の中身をそう変えるものではありませんでした。生成AIは違います。数年前なら外注に数百万円と数か月かかったであろうアプリを、教員個人が作って毎週直せます。しかもAIによるパーソナライゼーションも多少は可能です。自分の授業の、自分の回の、伝えたい一点のためだけの道具としてのソフトウェアが成立するようになりました。これはアントレプレナーシップ教育に限らない変化だと思います。
2つめに、その代わり授業の設計は難しくなりました。学生・教員・教材の三者で成り立っていたところに、四つめの要素として本格的にソフトウェアが入ってきたからです。汎用のツールだけでなく、1コマごとの講義に合わせた専用のソフトウェアをすぐに作れるようになった今、アクティブ・ラーニングの中にソフトウェアや生成AIをどう位置づけるかについて、模索の時期がしばらく続くのだろうと思います。
3つめに、それでもAIを使わなければ、現実と教育のギャップが拡大していくことは間違いないだろうということです。前回の記事でも触れたとおり、実社会と距離が近いアントレプレナーシップ教育だからこそ、実社会との折り合いをどうつけ、短期間で学生の学習をどう最大化するかを、改めて考え続ける必要があると感じています。
世界での類似の取り組み
生成AIとどう付き合うかは、海外の教育現場も悩んでいるようです。
たとえば2026年春のStanfordのLean LaunchPadでは、8チームが約10週間で978件のインタビューを行い、全チームが生成AIを使いました。そこで報告されたのは、AIでプロダクトを作る速度が、顧客から学ぶ速度を追い越すという問題です。学生は数時間で洗練されたMVPを作れる一方、それがどの仮説を検証するためのものかを説明できないことがあった、といいます。努力と成果物のアンバンドルという私の問題意識と、ほぼ同じ認識です。
ミッションを指定する形式は、Stanford発のHacking for Defenseが先行しています。政府機関などが持ち込む実在の課題に学生チームが挑む授業で、約70大学に展開されています。違いは、Hacking for Defenseが「現在困っている問題」を扱うのに対し、道場は「将来大きくなるべき領域」を教員が設定している点です。またWhartonのGenerative AI Labsは、AIがメンターや投資家役を演じるピッチ練習シミュレーションを作り、さらに教員が自分の授業専用のシミュレーションを作れる環境まで構想しています。
つまり今年の私たちの授業は、ミッション指定型の授業、AIシミュレーション、仮説検証、長期構想からの逆算という、世界で個別に試されている要素を、「大きな山をAIと登る」という一つの比喩とカリキュラムに統合した実験だった、と位置づけられます。ただし公平のために言えば、海外事例の多くもまだ実践報告の段階で、AI利用が長期的な学習成果を高めたという厳密な検証はこれからです。本稿の主張も、有効性が証明された方法ではなく、同じ方向の実験が世界で同時多発的に始まっている、という水準で読んでいただければと思います。
まとめ
身近な課題についての仮説検証サイクルはAIによって早くなりました。そうした世界において、人間に残る仕事が「どの山に登るかを決め、登り方を設計し、判断し続けること」なのだとすれば、教育の重心もそちらへ移していく必要があります。 今年の道場は、その一つの試行でした。
授業では学生の皆さんに「100点満点で95点を取るか、1兆点満点で95億点を取るか」と尋ねましたが、同じ問いは、私たち教員側にも向けられているのだろうと思います。既存の枠組みの中で少し良い授業を作るか、何を教えるべきかから作り直すか、です。
そして、アントレプレナーシップ教育に関わる私たち自身は「アントレプレナーシップを発揮できているか」「教育でも毎年挑戦していないか」を常々問わなければならないのだろうと思っています。その取り組みが今年の取り組みです。
私たちの仮説が間違っているかもしれませんし、来年も同じ授業をやっているとは限りませんが(たぶん変えていると思いますが)、現時点の私たちの取り組みの情報共有として記事にまとめておきます。
なお、今回使ったアプリの公開の予定はありませんが、プロンプト集はFoundXのサイトで公開しています。同じ試行錯誤をされている教育関係者や政策担当者の方がいれば、参考にしていただければ幸いです。
