防衛と安全と平和のためのお金を何に使うか

世界銀行のレポートによると、現在も進行しているウクライナ戦争では、2022年2月の全面侵攻開始から2025年末までの約4年間で、建物やインフラなどへの直接被害が約29兆円(1,950億ドル超)に達しているそうです。同じレポートでは今後10年間の復旧・復興に約88兆円(約5,880億ドル)、同国の2025年の名目GDPの約3倍に相当する費用が必要と見積もられています(1ドル=150円で換算)。
これをGDP比で日本の経済規模に置き換えると、直接被害は約660兆円、復旧・復興費用は約2,000兆円に相当します。これはGDP比を当てはめた規模の例であり、これからの日本の戦争被害を予測したものではありませんが、太平洋戦争時に受けた日本の被害も同程度の規模ではありました。太平洋戦争全体で日本が被った資本ストックの毀損は当時の年間GDPの86%に相当すると言われており、2025年の経済規模に置き換えると約570兆円に当たります。
もし日本がこれから大規模な戦争の舞台となった場合、数百兆円規模の損害が起こりうると考えても良いでしょう。(なお、この数値はあくまで経済的なもので、失われた人命や、生き延びた人たちの時間などの取り返しのつかない様々な損失は含まれていません。)
こうした660兆円規模の損害や人々への影響を考えれば、年に数兆円規模の予防的な支出は十分に正当化されうるように見えます。たとえば年間約9兆円(令和8年度の防衛予算)の支出は、それによって戦争の起きる確率を年あたり約1.4ポイント下げられるなら、経済的には元が取れることになります(9兆円 ÷ 660兆円)。
ただ被害額が甚大であるが故に、このロジックではほとんどどんな投資でも正当化できてしまいます。だからこそ、本当に効果のあるものに投資していくことが大事なのだろうと思いますし、そのためには手段どうしの効果を比べる必要があります。そして防衛の目的である安全を保障するためには、防衛以外の選択肢も多数あります。
つまり問うべきなのは、防衛に投資するかどうかだけではなく、私たちの安全を守るために、どの防衛手段にどこまで投資するべきか、という点です。
現在スタートアップの文脈でも「防衛テック」への投資が注目を浴びています。以下ではそれへの支出を否定するのではなく、「どの程度であれば適正なのか」、あるいは別の手段はないのかを考えるための素描をしてみたいと思います。
(もちろん支出と同時に、その財源についても議論をするべきだと思います。防衛費の捻出のために、法人税や消費税を安全のためにどの程度上げるのか、あるいは国の一般会計で約40兆円の社会保障関係費や燃料油への補助を下げるといった、他の支出を削るといった困難な議論もしていく必要があるでしょう。スタートアップであれば、防衛テックへの投資が増えることで、防衛以外の領域への投資が相対的に下がるであろうことにどう向き合うのか、といった議論もあります。ただ本稿では、いったん支出や投資の側に絞って考えます。)
期待損失を分解する
確率と被害
冒頭に挙げた損害を、スタートアップへのベンチャー投資に引きつけて考えてみます。ベンチャー投資では期待リターンを「成功したときのリターン × 成功する確率」で考えます。同じ計算式で戦争を考えると、次のようになります。
ここでの被害は小規模な衝突から大戦争までを含めた平均です。戦争のリスクを減らすための投資は、確率と被害のどちらか、あるいは両方を下げるものです。抑止や紛争予防は主に「起こる確率」を下げ、防護・避難・インフラの強靱化は主に「起きた場合の被害」を下げます。
被害の裾の重さ
スタートアップ投資にはべき乗則が働き、少数の大成功がリターンの大半を決めます。なので投資家は平均的な成功よりも、大きく当たる可能性を追います。
戦争の規模も似た分布に従うことが知られています。戦死者数で見た戦争の被害規模はヘビーテール(裾の重い分布)になり、まれに起きる最大級の戦争が被害全体の大きな部分を占めます。スタートアップでは大成功が期待値を決めるのと同じように、戦争では巨大な戦争が期待損失を大きく左右するということです。
ただし、両者は逆の方向性です。スタートアップ投資では裾にある大成功を追いますが、戦争では裾にある巨大な損失を避けることになります。そのため安全保障の文脈では、起こる確率を下げることに加えて、破滅的な被害が生じるリスクを減らすことも検討する必要があります。
投資でも、一度市場から退場したら戻ってこられないような損失は平均値だけで評価せず、「退場の一撃」をいかに避けるかを考えます。それと同じように、最悪のケース(破滅的テール)に耐えうる頑健性を築くことが求められるということです。

安全保障のジレンマ
こうした最悪のケースへの備えは地震対策にも似ています。しかし地震は私たちの耐震化に応じて強くなったりしない一方で、相手国は私たちの軍備に反応します。こちらが防衛のつもりで能力を高めても、相手からは攻撃能力の増強と区別がつきにくく、相手も能力を高めて応じる、という構造が防衛にはあります。国際政治学で「安全保障のジレンマ」と呼ばれる構図です。
つまり、確率を下げるはずの投資が、相手の反応を通じて確率を押し戻すこともあれば、双方の攻撃力が増えることで被害の上限を押し上げることもある、ということです。ある意味で、互いに賭け金を積み上げていくように、衝突が起きたときにどちらかの被害が甚大になっていく構造が、力による防衛には生じる傾向があります。

確率と被害の2×2
このような前提を踏まえた上で、「戦争が起こる確率 × 戦争が起きた場合の被害」で整理すると、同じ投資でも確率と被害を別々の向きに動かすことがあると整理できます。そこでここからは、期待損失を構成する2つの要素で、投資を次の4つの象限に分けて考えていきます。
| 被害を下げうる | 被害を上げうる | |
|---|---|---|
| 確率を下げうる | (1) 侵攻を思いとどまらせ、被害も減らす防護・分散など | (2) 開戦を抑止する一方、抑止に失敗すると戦争を拡大させる打撃力など |
| 確率を上げうる | (3) 被害を減らす一方、相手に先制を促す防御など | (4) 危機を不安定にし、被害も増やす軍拡の連鎖など |

どの枠に入るかは運用と相手の反応によって変わるため、あくまで条件付きの例とお考えください。衛星や観測・分析サービス、ドローンなども、攻撃の照準やキルチェーンの短縮に使えば (2) に、検証に使えば (1) に近づきます。また、攻めても目的を達成できないと相手に思わせる「拒否的抑止」にも、侵攻部隊や補給能力を破壊する能力は含まれます。そのため、各象限の境界にはグラデーションがあるという前提で整理します。
左上の (1) は確率を下げ、被害を下げるか増やさない投資です。防空や拠点の分散、電力・通信・物流の強靱化が、相手の侵攻を思いとどまらせ、開戦時の被害も減らすなら、ここに入ります。読み違いを減らす観測・検証の技術や外交、危機時の連絡手段も、被害を増やさずに確率を下げるなら同様です。
右上の (2) は確率を下げる一方で、被害を上げうる投資です。たとえば、攻めれば耐えがたい報復を受けると思わせる「懲罰的抑止」を支える打撃力が、開戦は抑止しても、抑止に失敗すると相手の反撃や戦争の拡大を招き、日本側の被害を増やす場合です。
左下の (3) は被害を減らす一方で、確率を上げうる投資です。たとえば、相手から見て自らの核報復能力を無力化するように映るミサイル防衛は、逆に相手に「先に撃たなければ」という誘因を与えるおそれがあると論じられてきました。実際に被害を減らしても、そのような反応で開戦確率を上げるならこちらに入ります。
右下の (4) は確率も被害も上げうる投資です。相手を刺激して互いに軍備を積み増す連鎖が、危機を不安定にし、開戦時の被害も増やす場合などです。
そう考えると、「防衛テック」と一口に言っても様々なアプローチがあります。しかし現在のスタートアップの文脈では、防衛テックは軍事力による防衛にかなり偏って論じられたり、認識されているように思います。防衛、ひいては安全保障に寄与していくことを考えるのであれば、今の防衛テックの領域に加えて、外交や交流などの非軍事的な手段まで比較の対象を広げて考えていくこともできるのではないかと思いますし、安全という観点で考えるのであればそうしたほうがよいのでは、と思います。
防衛以外の手段
こうして一歩引いて防衛テックを見ると、軍事的な抑止や防護以外にも、防衛に役立つ技術や事業があることが分かります。
平和学者のヨハン・ガルトゥングは平和を「対立を暴力によらず、創造的に扱う力」と捉えました。そして暴力を、直接的暴力(殺傷や破壊)、構造的暴力(貧困や排除など、社会の仕組みが生む害)、文化的暴力(暴力を正当化する考え方)の三つに分けました。
こうした整理を参考に、平和に向けた取り組みを次の4つに分けてみます。
| 分類 | 平和に向けた役割 | 対処する問題 | タイミング | 主な手段 |
|---|---|---|---|---|
| 安全保障 | 暴力を防ぎ、人々を守る | 侵略・攻撃・殺傷 | 紛争前・中 | 防衛・抑止、外交、軍備管理、早期警戒・危機管理、停戦監視、文民保護、重要インフラの防護 |
| 紛争解決 | 話し合いと法にもとづいて対立を決着させる | 利害や主張の対立そのもの | 紛争前・中・後 | 外交・仲介、国際法・国際機関、選挙・政治参加、司法・法の支配、人権保障、汚職対策 |
| 社会経済的基盤 | 一人ひとりが安心して暮らし、持てる力を発揮できるようにして、争いの原因を減らす | 貧困・格差・排除・経済など | 紛争前・後 | 雇用、公共サービス、経済、人道支援・復興 |
| 信頼醸成※ | 共存と和解を可能にする(敵意を減らす) | 敵視・偏見・暴力を正当化する考え方 | 紛争前・後 | 教育、文化・人的交流、トラック2外交、共同事業、報道・情報環境、市民対話、歴史をめぐる和解 |
※ 安全保障の分野でいう「信頼醸成措置」は、軍事演習の事前通告など、主に国家間の軍事的な取り組みを指しますが、本稿では市民どうしの交流や和解も含めた、より広い意味で「信頼醸成」という言葉を使っています。
いわゆる防衛テックは主に安全保障、その中でも侵略の抑止と被害の軽減に関わるものです。紛争解決は主に、いま起きている対立に対処するための取り組みです。社会経済的基盤と信頼醸成は、対立が生まれにくい状態をつくるための取り組みです。
どれか一つだけでは平和は長続きせず、四つが互いを支え合うことで平和と安全は保たれます。
そう考えると、いわゆる防衛は四つのうちの安全保障の一部であり、軍事力はさらにそのなかの一つの手段でしかないと整理できます。平和な状態、あるいは私たちの安全をつくり出すための手法は、それ以外にもたくさんあるということです。であれば、平和と安全を語るときに問うべきは軍事や防衛だけではなく、より広く、私たちは平和と安全のためにどこに投資をしていくのかや、どこでテックを使うのか、ということです。
たとえば、防衛テックに100億円を使う代わりに、その100億円を各国の信頼醸成や文化交流のためのソリューションに使うとどうなるのか、あるいは政治的に不安定な国の貧困や格差の解消に使うとどうなるのかといった問いが、平和と安全を守るという目標のもとでは、同じテーブルの上で語られても良いのではないか、ということです。

平時のリターンを加味する
そしてそれぞれの手段については、戦争が起きなくても便益を生む点も加味しておくべきでしょう。
たとえば電力、水、教育、文化などの事業は、戦争が起きなくても利用者に便益を生みます。蓄電や電力供給の多様化によって平時のコストを下げ、有事の供給停止にも耐えられるなら、その両方を評価できます。国を超えた共同研究には研究成果があり、文化交流には作品や教育機会という便益もあるでしょう。
この点は気候変動対策にも通じます。IPCCは排出削減と適応を組み合わせる取り組みについて、健康や大気の改善など、気候被害の回避以外の便益も示しています。同じように、平和のための投資でも、予防の効果と日々の暮らしへの効果を別々に確認できるはずです。
もちろん、いわゆる防衛テックにも、確認できる民生転用や研究開発の波及効果があれば、同じ基準で加えるべきでしょう。一方で、平和のための投資を広く取るからこそ、既存のエネルギー投資や教育予算を「平和テック」と呼び直しただけで、新しい便益が生まれたと数えないようにするべきだとも言えます。

カテゴリエラーが起こるからこそ自らがその有効性を語る
こうした防衛や安全を考えることは、防衛テックにとっても良いことのように思います。なぜなら、カテゴリの名前と実際の寄与がずれる問題は常に起きてきたからです。
近年も気候テックが盛り上がったときにも、気候変動の緩和や適応にほとんど寄与しないのに、気候テックを自称するソリューションやサービスが増えました。その結果、気候テックというカテゴリ自体が怪しく見られた部分もあります。
防衛テックでも同様のことは起こりえます。まったく防衛に資さないのに、防衛に資すると自称する事業が増えたら、そのカテゴリの信認の問題となります。だからこそ、以前の記事でも書いたとおり、防衛テックによって防衛力が実際にどの程度高まるのかを考えることが、そのカテゴリの事業への説得力にも繋がるはずです。
そうした意味でも、防衛テックを自称するスタートアップやそこに投資する投資家こそ、その事業が防衛力にどれほど寄与するのか、そしてその手段は他に比べてどの程度有効なのかをきちんと説明できなければならないのでは、と思います。
抑止と相互依存をめぐる反論
さて、こうした整理には、いくつか反論もありうると思います。ここでは、抑止が弱まることを懸念する反論と、相互依存の効果を疑う反論を取り上げます。
反論 (1) 抑止には閾値がある
まずよくある反論は「防衛力が弱いと見られれば、攻められやすくなる」というものです。これは正しい指摘だと思います。攻めても目的を達成できないという相手の認識が崩れると、抑止は急に弱まり、戦争の確率は上がります。つまり抑止には、それが成り立つための水準、いわば閾値があります。したがって、「防衛への投資を減らせば安全になる」とは単純に言えません。
だからこそ議論すべきなのは、無防備戦略を取るという単純化した話ではなく、その水準を越えた先の「追加の1円」をどこに向けるかです。十分な抑止力があるとき、さらに攻撃力を積み増して確率を下げる効果は小さくなるかもしれません。むしろ、相手の反応を招いて確率を上げたり、破滅的な被害のリスクを高めたりといった逆効果になる可能性があるのは、前述したとおりです。
平時のリターンのない純粋な防衛への投資は、いわば保険であり、その保険料は主に私たちの税金から払われています。どの程度の保険をかけておくべきか、その水準は想定する侵攻のシナリオや相手によって変わり、簡単には測れません。それでも「どこまで備えれば十分と言えるのか」という問いは、防衛投資の議論の中で扱っていくべき論点であるように思います。
反論 (2) 相互依存は戦争を防げなかった
二つ目は、相互依存を深めても戦争は防げない、という反論です。この記事はウクライナの話から始めましたが、ウクライナ侵攻は、経済の相互依存が実際に戦争を防げなかった事例でもあります。
ドイツは「貿易を通じた変化(Wandel durch Handel)」を掲げてロシアとのエネルギー取引を深めましたが、侵攻は起き、ガス供給への依存はむしろ欧州の弱みになりました。さらに時代をさかのぼれば、1909年にノーマン・エンジェルは『大いなる幻想』で、経済の相互依存のもとでは戦争は勝者にとっても割に合わないと論じましたが、その数年後に第一次世界大戦が起きています。経済的に割に合わなくても、戦争は起こりえるということです。
ただし、この反論についても二つの点を整理しておく必要があります。
一つは、依存の形の違いです。供給先を切り替えられる関係と、一国にしか頼れない関係とでは、関係が途絶えたときの被害も、交渉の力関係も違います。双方が関係の維持に利益を持つ対称な依存か、片方だけが強く依存する非対称な依存かによっても異なります。ドイツとロシアのエネルギー関係は、欧州側に代替手段が乏しい、非対称な依存に近いものでした。この事例だけで、相互依存という手段全体の効果を否定するのは難しいように思います。
もう一つは、効果を確かめる基準を、どちらの手段にもそろえることです。効果が生じる経路、証拠の質、副作用、費用を、防衛にも交流にも同じように問うということです。たとえば文化交流が戦争を防いだことを示すのは難しいですが、それは防衛への投資にも同じことが言えます。交流や相互依存が失敗した事例があるように、抑止のための軍備への投資が失敗した事例もあります(たとえば太平洋戦争の開戦前、米国は日本を抑止するために艦隊をハワイに配備しましたが、真珠湾攻撃は起きました)。片方にだけ厳しい証明を求めるのは、余り良い議論とは言えないように思います。
民間の投資をどこに向けるのか
現在の情勢を見ている限り、国全体として一定の資金を防衛力の向上に充てていくのは、残念ながら仕方がない状況のように思います。だからこそ、「防衛費を増やすかどうか」だけでなく、必要な抑止力や防衛力を確保したうえで、追加した資金が戦争の確率と被害の両方をどれだけ下げるのかも議論する必要があるのではないか、ということです。
ここまでは主に国全体のビューで見てきましたが、この議論は民間にも当てはまります。
防衛への民間投資が増えるということは、民間にも相応の責任が発生するということです。これはスタートアップも同じです。今後、防衛テックの領域に1,000億円が追加で投じられるとすれば、問われるのは「その1,000億円を何に使うか」であり、将来世代が今を振り返ったときに問うのも「私たちの世代は何にお金を使ったか」でしょう。
防衛省は自らの担当の範囲内での強化を行うのが組織としての論理であり、政治もまたそちらの方向に向かいがちです。しかし政府もまた人間が動かしているので、間違うこともあります(各国の政府が今もまさに様々な間違いを犯しているように、です)。
政府の意向に従うことが公共心の発露というわけではないはずです。むしろ民間だからこそ、政府組織の論理に囚われず、より広い視野で考えていくほうがよいのでは、と思います。
平和への投資としての寄付
とはいえ、民間もまた動きづらいのは事実です。市場にいる投資家は、それぞれに課されたタイムフレーム(上場企業なら四半期や数年、VCなら10年程度)の中での損益で物事を考えます。市場は公共に資することに最適化されているわけでもないので、効果が出るまで長い時間がかかる取り組みに市場の資金で応えるのは難しいでしょう。
だからこそ、個人の富裕層や財団からの寄付などが、この領域にもっと必要なのだろうと思います。
まずそうしたお金は、市場とは異なる時間軸を持ちます。国の予算は単年度で、政権の優先順位によって変わります。VCのファンドには10年程度での回収が求められます。文化や教育の効果が現れるまでの数十年を待てる資金は多くありません。寄付は、複数年、あるいは数十年にわたる支援を出し手が選べる数少ないお金です。
そして測れないものを許容できることです。公的資金は説明責任のために測れる成果を求めます。それ自体は正しいことですが、その結果、「起きなかった戦争」への投資には資金がつきにくくなります。寄付であれば、使途を限定しすぎず、多くの試みのうち少数が大きく効けばよいという、スタートアップ投資に近い考え方をとれます。それが戦争のリスクを下げれば、出し手自身の安全にもつながるかもしれません(とはいえ、一部の富裕層のように、個人シェルターなどを購入して個人単位での破滅を避けることにお金を使うパターンもあるとは思いますが……)。
次に独立性です。政府が資金を出す文化交流は、相手から見れば宣伝や工作と区別がつきにくいことがあります。ジョセフ・ナイなども、ソフトパワーの多くは政府ではなく市民社会から生まれると指摘しています。ただし、資金源が民間であるだけで独立性が保たれるわけではありません。寄付の条件として、出し手が内容に介入しない独立した運営を支えるなら、相手国の知識人や芸術家も参加しやすくなるかもしれません。
最後に、国家間の関係が悪化したときにも続けられる可能性があることです。国家間の関係が冷え込むと、公的な交流予算は削られ、企業も関係を控えがちです。しかし、交流の回路が最も必要になるのは、まさに関係が悪化したときです。政治から独立した寄付はその局面でも回路を保つことができます。
実際、1995年にロートブラットと共同でノーベル平和賞を受けたパグウォッシュ会議は、冷戦期の東西間の連絡経路となり、参加者は核実験禁止や核不拡散の条約形成に舞台裏で関わりました。最近のFinancial Timesの記事でも、ロシアの核攻撃の危機に対し、民間のパイプを通じて米政府の意向をプーチンに直接伝え、危機の回避を試みた舞台裏が報じられました(それが危機の回避に一役買ったともされています)。
こうした交流の回路を保つための、日頃からの交流活動を支えるお金としては、数億円から数十億円でも大きな額であり、その効果を大きく変えられるかもしれません。もし仮に、防衛テックの代わりに文化交流に1,000億円を投じ、危機の最後の局面で対話の回路が残っていたために開戦を避けられたなら、そちらのほうが良い投資とも言えるかもしれません。
冒頭で、660兆円規模の損害や人々への影響を考えれば、年に数兆円規模の予防的な支出だと言いましたが、それがもし100億円や1000億円といった投資や寄付でなしうるのであれば、それは本当に大きな意味を持つ投資となるはずです。スタートアップで成功した起業家や投資家が増えている今、その資金の一部が、こうした長い時間軸で平和をつくる取り組みに使われることには、大きな意味があるのではないでしょうか。
まとめ
テクノロジーは人の能力を増幅してくれます。しかし、それは人の持つ殺傷能力や環境破壊の力を増幅する面も持ちます。
防衛テックへの投資も、防衛以外の手段も、追加の資金が戦争の確率と被害をどれだけ下げ、平時にどれだけの便益を生み、どれだけの費用がかかるかという同じ物差しで比べていく必要があると考えています。そのうえで、今の時代に必要な防衛力に資する、そんな防衛テック事業に投資するのであれば、将来の世代からも理にかなった判断だったと評価されるでしょう。
いまは、市場合理性だけを考えれば防衛テックに投資するべきだ、という雰囲気があるように見えます。他人のお金を預かって増やす投資家の立場も理解はできます。しかし、市場合理性だけで判断することは、市場のルールに埋め込まれた価値観や現状の社会の構造を追認する行為でもあります。
一方、私たちが活動しているのは、市場の外にも広がる「社会」です。市場は社会のほんの一部であり、私たちは市場の枠を超えて考え、その外から自らの意志で市場を変えていくこともできるはずです。互いの被害と紛争の確率を上げるような市場の構造があるのであれば、それにNoと言うこともできるはずです。それに、争いに巻き込まれて死んでしまえば、儲けたお金も意味を持ちません。
だからこそ、「防衛に投資するかどうか」という問いを、より広く防衛と安全を捉えた上で、「どの手段に、どんな効果を期待して資金を配分するか」という問いへ進めることが、改めて防衛テックや、その先にある平和と安全を考える議論の出発点になるのではないか、と思います。