専門家の技能が安くなると起こること、今起こりつつあること

1970年代後半まで、複雑な財務分析は専門家の仕事でした。
数理や会計に長けた人が複雑な式を扱い、一歩一歩計算が合っているかを確認しながら進んで、間違いに気づいたら、間違ったところからやり直す。計算が間違っていなくても、新しい情報や数値が来たらまた再計算する。
その作業を繰り返すことで、ようやく企業の正確な財務状況を把握でき、それをもとに経営改善や投資判断などがなされていました。

VisiCalc の画面はこちらから: https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Visicalc.png (Public Domain)
そんな中、ビジネススクールで金融の授業を受けていた Dan Bricklin は、再計算の苦痛から表計算ソフト (VisiCalc) を発想し、1978年末の2ヶ月で開発、1979年に販売を開始します。
その後、VisiCalc に続いて Lotus 1-2-3 や Excel といった表計算ソフトが生まれ、その普及によって、多くの人が計算や再計算を対話的・反復的に行えるようになりました。
表計算ソフトは、会計士や計算に長けた人のタスクを効率化して、減らしたと言えるでしょう。場合によっては、タスクのみならず、仕事そのものをなくしてしまったこともあるかもしれません。
しかし、現在の AI の議論でもよく言われているように、それは人が別のところに時間を使えるようになた、ということでもありました。表計算ソフトによって、会計士は計算というタスクから解放され、より高度な専門知識が必要な仕事に集中できるようになったのです。
ただ、それだけで終わりはしませんでした。

表計算ソフトは 1980 年代以降のコンサルティングや投資産業の発展を支えました。そこまで計算が得意でない人やジュニア層であっても、ソフトさえあればある程度の計算ができるようになり、その仕事に参入できる人の数が増えたからです。
コンサルや投資業界の発展は表計算ソフトが最大の要因だとは言えないとはいえ、1980年代以降のこれらの産業の発展の裏には、こうした表計算ソフトによる、「計算」の一般化があったと言えます。
そうして実際に大きな儲けを得られたのは、計算を楽にするツールを提供するソフトウェア企業と、「一般化した計算という力をうまく使った人」でした。
AIがソフトウェア以外の多様な専門知を提供するとしたら

かつて表計算が計算を一般化したことが、今はAIが様々な専門家の知能や技能を一般化していこうとしています。それによる影響はいくつか出てくるでしょう。
先日「ソフトウェアや知能が安くなったときに起きること」という記事では、ジェボンズのパラドクスのソフトウェア版を紹介しました。これはソフトウェア技術者の技能や知能が一般化したときに起こりうることです。
しかしAIはソフトウェア開発「以外」の知能も提供しています。現在はソフトウェア領域で先んじてその応用が行われていますが、おそらくその影響範囲は他の知能にも及んでくるでしょう。
そしてかつての表計算ソフトは、計算という技能に特化した置き換えでしたが、今回のAIの性能は、ほぼすべての専門領域が対象になるという点です(ある程度のレベルであれば)。
そこでこの記事では、その他の専門家の知能や技能が一般化したら何が起こるのか――そしてその兆候として、私の周りで今何が起こりつつあるのかについてまとめてみたいと思います。
「もし安く、すぐに専門家が手に入るなら何をするか?」

おそらく起こるであろう変化の1つは、既存の需要の効率化です。たとえば、弁護士や医師の仕事を効率化していくことはある程度可能になるでしょう。
それだけではなく、これまで需要が満たされていなかったところへの普及も起こりえます。かつての光や電球のように、安くなった製品は、これまでコストパフォーマンスが合わなかったところでも使われ始めます。
昨今のAIでいえば、「今日の冷蔵庫の残り物で作れて、子供も喜んで食べてくれる食事の献立」といった料理のコンサルティングなどは、従来届かなかったところまで、専門家の知能や技能が届こうとしている例です。この記事にたくさんの解説画像が使えるようになったのも、その生成コストが大幅に下がったからです(これまでは手作業でした)。
そして先ほどの表計算ソフトの例のように、専門家の技能が一般化すると、それを使った仕事が増えます。ワークフローの一部が効率化することで、それをパーツとして使う領域の機会が広がるほか、かつては専門家でない人も専門領域に入ってきやすくなります。
表計算ソフトのときに起こったことは、「もし安く、すぐに計算手が手に入るなら何をするか?」という問いにうまく答えることができたコンサルティングや投資業界が富を得たということです。
であれば、今大事な問いは「もし安く、すぐに様々な専門家が手に入るなら何をするか?」だとも言えます。
実際、スタートアップ支援の現場にいると、VisiCalc が会計・投資業界の参入障壁を下げてコンサルや投資産業の拡大を生んだ現象と同じことが、今 AI によってディープテック領域で起きつつあるのでは、と感じています。

AI for Engineering - ディープテックスタートアップで起こりつつあること
AI for Engineering と呼ばれているような領域は、まずはその専門家を大きく助けることになるでしょう。会計士にとって、計算が楽になったようにです。
そして次に起こるのは、コンサルや投資業のように、その能力を一部として使うような仕事が増える、ということです。
実際、ディープテックスタートアップの初期の支援をしていて兆しを感じているのは、その領域の非専門家であった起業家が、専門性を必要とする領域に入ってきても、頑張りさえすればすぐにある程度のレベルまでいけるようになった、という変化です。
たとえば以前であれば、自分の非専門領域で起業をしようとしたとき、こんなことが起こっていました。
その領域の専門家を数日かけて探して、その人に依頼して、数週間待つ。1つの仮説検証に数週間かかる。
これが ChatGPT を使えば、以下のようになっています。
多少難しい問いでも、1, 2時間で机上の検証が終わる
特に 2025年12月に出た ChatGPT 5.2 Pro 以降のモデルは、数字的な検証作業をかなり高度なレベルでこなせるようになっていると感じています。
生成AIは長らく「検証が苦手」と言われてきましたが、ハルシネーションはかなり抑えられ、かつ技術経済性分析の簡易版や第一原理試行的な根本から組み立て直すような作業も、完璧とは言えないまでも、ある程度の精度で行ってくれます。
それにExcel 等で出力させておけば、AIが数字を間違っていればこちらで直せます。
最近だとフィールズ賞受賞者の Terence Tao 氏による GPT-5.2 Pro と協働して Erdős の未解決問題を解いた一連の事例(2026年1月)などの事例も出てきています。現在の最先端モデルは「標準的な技法で解ける問題を高速で片付けてくれる道具」として有用なレベルまで上がってきているということです。
これを VisiCalc と対比させると、以下のようなことになるのではと思います。
過去(Excel登場時) | 現在・未来(AI登場時) |
計算というボトルネック | 専門知識というボトルネック |
会計士という職能の一般化 | 各分野の専門家の知能の一般化 |
コンサル・投資業界の人材プール拡大 | ディープテック起業家の人材プール拡大 |
アメリカやヨーロッパのスタートアップを見てみると、Defense Techなどの領域が盛り上がってきています。これは需要側の変化が最も大きいとはいえ、AIによって「専門知識をすぐに引き出せるようになった」という供給側の変化もあってこそのものではないかとも感じています。
これは AI for Engineering の例の一つと言えるようにも思います。

非専門家に開かれつつあるディープテック
専門技能が簡単に使えるようになると、その技能をパーツとして使う領域に多くの参入者が入ってこれるようになります。ディープテックでいえば、ディープテック領域での起業に非専門家が参入できる余地が、かつてなく広がってきているということです。
そして実際、アイデア探索を手伝う起業支援プログラムでも、そのディープテックの領域の非専門家、 AI の力を借りながら専門的な知見をつけて、かつてないほどの早さで最初の初期フェーズの仮説検証を乗り越える例が出始めていると感じています。

たとえば、以下のような作業はある程度の精度で実施ができます。
- 第一原理思考(物事を根本から分解して考えてそもそもどこまで可能かを考える)
- 簡便な技術経済性分析(TEA)や感度分析
- 事業+技術の方向性の探索
- BOM の切り分け
- (該当する補助金などのリストアップ)

これまで専門家に依頼したり、アルバイトを雇って数週間かけて計算してもらっていた初期の机上検証が、手元で 90 〜 180 分あれば回せるようになった、ということです。
このような変化によって、非専門家アイデアを並行して検証することも可能になりました。Excel 等の表計算ソフトによって再計算が楽になったように、アイデアのピボットが専門領域でも可能になってきています。
それだけではありません。リアルな世界での配線やパイプの適切な設置の方法も、写真を撮って Gemini に聞けば、ある程度教えてくれます。つまり、実際にものを作るところでも、AI を活用すればある程度のところまで行けるようになりました。
もちろんAIが知らないような、最先端の知見を用いる創薬などの領域では使えませんし、細かなノウハウはまだ専門家にはかないません。危険な作業を行うときは、専門家のアドバイスが必要でしょう。ただ、大雑把な方向性の確認などについては、かなりの時間短縮が可能になっています。
ディープテックのプロンプトライブラリ

こうした技術的な進展があり、最近よく ChatGPT Pro を使って、支援先の起業家の皆さんに関わるような領域の分析を行うことが多くなりました。
そこで今回、私たちが使っているプロンプトなどを、FoundX ディープテック初期プロンプトライブラリ として公開しました。
このライブラリでは、技術アイデアの供給サイド(技術側)の問題点やリスクを検証するためのプロンプトを格納しており、入力された事業生成します。具体的には以下のような機能があります。
- 入力値を一度入れれば、全プロンプトに自動反映
- その後、ChatGPT 等で実行することで、Word / Excel でアウトプットを生成
Cloudflare Pages の静的ページで動作しており、入力情報はサーバーに送信されません。(文章はローカルストレージに保存しています)。
注意点として、以下のようなものがあります。
- Claude でも動きますが、現状は GPT Pro の方が良い結果が出る印象なので、ChatGPT Pro(月額100ドル)推奨です。
- ChatGPT Pro の場合、1実行あたり90〜180分かかります。
ただし、こうしたプロンプトには、有効なケースと無効なケースがあります。
- ✅ 有効:物理法則・コスト構造・製造プロセスなど、閉じた系で定量的に詰められる技術側の検証
- ❌ 不向き:顧客行動や市場受容性など、人間という開いた系を相手にする需要側の検証
供給側の物理法則は閉じた系であり変化も基本的にはありませんが、需要側は人や市場の変化が大きく、予想がつかない部分が大きいため不向きです。そのため需要側の検証には、依然として顧客インタビューなどの活動が必要です。
ただ、従来であれば供給と需要の両方を検証しなければならなかったところから、供給側の検証についてはかなり楽になったとも言えます。
ハードウェアのルネッサンスに向けて

今後、生成 AI が進歩していった先に起こるボトルネックは、おそらく物理の側で起きてくることになります。今でもエネルギーや変圧器、水などは不足しています。そうした物理的な問題のボトルネックを解くことは、今後より求められ始めるはずです。
そうして、需要側で物理の存在感が大きくなりつつある一方で、供給側でもしAI の知能を活かして物理的な供給をできるようになれば、そこには大きな機会があるようにも思います。
そうした意味でも、今はまさに、ソフトウェアの力によってハードウェア側の大きな変化が起こりえて、実はハードウェアの時代が戻ってくるのではないか、とも感じています。
たとえば「データセンター用の変圧器が足りない」という話を聞いたのであれば、
「データセンター用の変圧器。ただし重い研究開発ではなく、既存の技術の統合で、従来の性能を10倍以上、もしくはコストを1/10にできるもの(空間利用なども含む)」
といった文言を上記のライブラリの入力し、事業提案や資金調達のランドスケープを出力させてみてください。いくつかの案が出てくるはずです。
その中で進め方を聞いていけば、ある程度筋の良い仮説にたどり着くことができます。これは従来なら相当時間がかかっていたことです。
とはいえ、当然ながら、アイデアが本当に実現するかどうかは起業家自身の検討や実行によるものですし、需要側の検証は人の手が不可欠です。また実際にものを作っていくときに手を動かすのは技術者であり、AIだけあればすべて解決するというわけではありません。
ただ、自分のアイデアをどんどん切り分け、ブラッシュアップしていく初期作業は、このモデルの進化で確実にやりやすくなっています。
少し興味のある領域が出てくれば、「仮説の質と速度を上げる道具」として、ぜひプロンプトを使ってみていただければと思いますし、皆がソフトウェアのほうを向いている今だからこそ、こうした物理領域やディープテックに挑戦する人が増えれば良いのではと思っています。
また、私たちと一緒にアイデアを考える Studio プログラムでも応募者を募集しています。もしご興味あればご参加ください。