<?xml version="1.0" encoding="UTF-8"?><rss version="2.0" xmlns:content="http://purl.org/rss/1.0/modules/content/" xmlns:atom="http://www.w3.org/2005/Atom" xmlns:dc="http://purl.org/dc/elements/1.1/"><channel><title>馬田 隆明のブログ（思想と資本）</title><description>馬田隆明のブログの「思想と資本」の記事。</description><link>https://takaumada.com/blog/tags/thought-and-capital/</link><language>ja</language><atom:link href="https://takaumada.com/blog/tags/thought-and-capital/rss.xml" rel="self" type="application/rss+xml"/><item><title>揺らぐ「社会的インパクト」とビジネスの思想</title><link>https://takaumada.com/blog/social-impact-thought/</link><guid isPermaLink="true">https://takaumada.com/blog/social-impact-thought/</guid><description>国の防衛や安全は公共財と考えられています。市場だけでは十分に供給されにくく、その便益を特定の人だけに限定しにくいため、国家が税によって支えます。人々の命や安全という、様々な活動の土台となる便益を生み出している（そして市場だけでは供給されにく…</description><pubDate>Wed, 14 Oct 2026 15:10:54 GMT</pubDate><content:encoded>&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/social-impact-thought/20261014101439.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;国の防衛や安全は公共財と考えられています。市場だけでは十分に供給されにくく、その便益を特定の人だけに限定しにくいため、国家が税によって支えます。人々の命や安全という、様々な活動の土台となる便益を生み出している（そして市場だけでは供給されにくい領域を補っている）という観点からは、人々の安全を高める防衛事業は、ポジティブな社会的インパクトを生むと考えられます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一方で、防衛をインパクトと呼ぶことに抵抗を感じる人も少なくないように思います。戦争に使われうる技術を「社会のため」と呼ぶのはおかしい、という感覚です。この感覚にもそれなりの理由があると考えます。一国が防衛力を高めると、相手はそれを脅威と受け取ることもあり、実際に紛争が起きたときには、そこで開発した技術や事業が人を傷つけることもあります。「世界を持続可能にしていく」という観点に立てば、紛争はないほうがよく、紛争の確率を高めてしまうのであれば、防衛事業にはネガティブな社会的インパクトがあると感じるのも不思議ではありません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;どちらの立場を取るかは、その人の思想によって変わると考えています。ここで言う思想とは、&lt;a href=&quot;https://en.wikipedia.org/wiki/Ideology&quot;&gt;Mullins のイデオロギーの定義&lt;/a&gt;を援用し、(1) 世界認識、(2) 評価指針（規範）、(3) 行動指針が統合された概念と考えます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;たとえば抑止が有効であると見るか、軍拡の連鎖を招くと見るかは世界認識の違いです。誰の安全を守るのか、どこまでを善とするかは、採用する評価指針（規範）の違いと整理できます。そして、そうした世界認識と規範を踏まえて、どの用途にどういった条件で投資を認め、何を対象外にするかという行動指針が生まれてきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;（※ただし、抑止や軍拡についての世界認識は、思想の違いとして整理するのは不十分で、具体的な条件や証拠に照らして検証する必要もあります。）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;以前から&lt;a href=&quot;https://takaumada.com/blog/why-business-thought/&quot;&gt;ビジネスと思想の近接&lt;/a&gt;について書いてきましたが、実務においてその論点が上がってくるのは、&lt;strong&gt;日本のインパクト投資やインパクトスタートアップの業界ではないか&lt;/strong&gt;、とも思います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;従来からもインパクトの定量化について取り組まれてきましたが、今議論の対象となりつつあるのは、インパクトの質的な側面です。ものさしで言えば、ものさしの目盛りを決めるのが定量化だとすれば、ものさしの方向をどうするのかが質の議論です。たとえば冒頭に挙げた防衛はその一例でしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今や身近になりつつある防衛や安全保障を「インパクト」に含めるかどうかが人によって異なるのであれば、インパクトという言葉にはさらなる議論や整理が、改めて必要なのではないかと考えています。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;共有されていた思想と思想の変化&quot;&gt;共有されていた思想と思想の変化&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;この数十年、社会的インパクトと言えば、なんとなく共通の認識がありました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;SDGs をはじめとして目指すべき目標があり、社会課題とは貧困や気候変動、教育格差、ジェンダー平等、包摂、個人の自由の最大化などである、という暗黙の合意があったように思います。そしてその背景には、グローバリゼーションやリベラリズムを良いものとする合意があり、インパクトという言葉が指す内容も共有されやすかったのだろうと思います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかしリベラリズムの批判者からは、それこそが問題だったという指摘があります。たとえば共通善保守主義を唱えるパトリック・デニーンや国民保守主義のヨラム・ハゾニーの論を見ると、こうした合意の背後には、中立を装ったリベラリズムが暗黙の前提として押しつけられていた、という認識があるように思います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうしたリベラリズムやグローバリゼーションへの反発も、世界各国で徐々に増しつつあります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;たとえば米国ではフロリダ州が2023年、州の公的資金の運用において、リスクや収益に影響する財務的な要因だけを考慮するよう定めました。また、銀行の脱炭素の連合であるネットゼロ・バンキング・アライアンスも、2025年10月に活動を終えています。気候変動が課題かどうかという認識や、それを誰が解決するべきなのかといった規範が揺らぎつつある一つの現象と言えるでしょう。（ただし、あくまでフロリダ州という一つの地域や、銀行という一つの産業での話です）&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それだけではありません。善の中身を入れ替える動きもあります。さきほど挙げたデニーンは、家族や地域、宗教の共同体を通じた社会の安定を重んじる&lt;a href=&quot;https://takaumada.substack.com/p/common-good-conservatism&quot;&gt;共通善保守主義&lt;/a&gt;という立場を表明しています。この主張に基づく規範に立てば、保守的な家族の形成を後押しする事業こそがインパクトと評価されるでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;同じ論法で、移民排斥を主張する人たちにとっては、移民を排除する事業こそが社会的インパクトを生む、という立場も論理的には成り立ちます。もちろん、当事者がインパクトと呼ぶことと、その評価を周囲が妥当と認めることは別ですが、もしそうした考えに賛同する人が増えてくれば、徐々にそうした排斥的な事業をインパクトのある事業と呼ぶようになってくるかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;採用する規範が異なればインパクトの評価もまた異なるというわけです。そしてその土台となる思想が揺れているため、インパクトが指し示す範囲も揺れつつあると言えるでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;思想を任せるという選択&quot;&gt;思想を任せるという選択&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;もちろん、市場では解決されづらい社会課題を解決すればインパクトだ、という立場も取れます。しかし、市場で解決されづらい事象は無数にあり、そのうちのどれを『解決すべき課題』と認定するかの時点で、すでに特定の規範が入り込んでいますし、その選択を意識しないノンポリ（non-political）的な立場は、結果としてその時代の多数派の判断を追認しているとも言えます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もう一つの選び方は、政府の課題解決に資するものをインパクトとみなすことです。日本では「公共」を「政府」と同じものと考えがちな印象があり、この見方は受け入れられやすいように思います。しかし、政府も判断を誤ることがあり、政府が間違った方向に向かおうとしているときに政府を支援するのであれば、それはポジティブな社会的インパクトがあるとは言えないでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;規範を海外の誰かに任せるという選び方もあります。&lt;a href=&quot;https://takaumada.com/blog/technological-republic-acceptance/&quot;&gt;以前の記事&lt;/a&gt;では、米国から入ってくる思想が大きな摩擦なく受け入れられている構造について書きました。防衛でいえば、サステナブルファイナンスで慎重に扱われてきた武器・兵器関連事業について、英国やEUは2025年、資金調達を一律には妨げないと整理し直していますが、日本でもその答えをそのまま受け取ることになるかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;政府や海外の基準を採用すること自体は一つの選択です。ただ、なぜその基準を採るのかを自分たちで説明できなければ、インパクトを考えたとは言えないでしょう。実際、サステナブルファイナンスの議論においても、投資を見送る判断は妨げないとしつつ、最終的な答えは投資家が自身で考えよ、という結論に現時点ではなっています。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;実務と思想&quot;&gt;実務と思想&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;社会的インパクトを測るものさしが揺れる中では、「社会課題」を何と捉えるかも揺れていきます。そしてこの十年程度、多くの組織が「社会課題の解決」を掲げてきたからこそ、どういった思想を背景にして社会課題を捉えようとしているのかが、改めて多くの企業に問われているのでは、と思います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;逆に、自社や自組織でその認識や規範の整理を避けたままでは、冒頭で触れたような抵抗感、つまり「社会課題」や「インパクト」という言葉への居心地の悪さは残り続けてしまうでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、その居心地の悪さは、私たちが何を望ましい変化と見なし、誰への不利益をどこまで考慮するのかを再び考えるきっかけにもなるはずです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これまでビジネスと思想の近接についていくつかの記事を書いてきましたが、特に純粋な市場ではない領域、いわば「社会」を冠する領域でこそ、思想とビジネスの近接は実務的にも課題になるのだろうと感じていて、その急先鋒となるのがインパクトの領域ではないかという話でした。社会課題や社会的インパクトを冠する企業が増えてきたからこそ、ビジネスにおいて思想の議論や整理が改めて必要とされているのではないかとも思います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/social-impact-thought/20261014101556.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded><dc:creator>馬田 隆明</dc:creator><category>思想と資本</category></item><item><title>25年刻みで整理する、戦後日本と2020年代の問い</title><link>https://takaumada.com/blog/japan-postwar-25-years/</link><guid isPermaLink="true">https://takaumada.com/blog/japan-postwar-25-years/</guid><description>2020年代も後半にさしかかり、私たちは今、何を問うべきなのか、最近よく考えています。 その問いの1つが最近よく記事として書いている『思想』です。思想の方向性は事業の土台となり、今後の事業やスタートアップの在り方に大きく影響すると考えている…</description><pubDate>Mon, 14 Sep 2026 15:40:46 GMT</pubDate><content:encoded>&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/japan-postwar-25-years/20260915004019.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;2020年代も後半にさしかかり、私たちは今、何を問うべきなのか、最近よく考えています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その問いの1つが最近よく記事として書いている『思想』です。思想の方向性は事業の土台となり、今後の事業やスタートアップの在り方に大きく影響すると考えているからです（これについては&lt;a href=&quot;https://takaumada.com/blog/why-business-thought/&quot;&gt;別記事&lt;/a&gt;参照）。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;思想を、&lt;/p&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;認識の地図&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;評価の基準のものさし&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;実践の指針としての進路&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;の三つで捉える整理をしたとき（&lt;a href=&quot;https://takaumada.com/blog/technological-republic-acceptance/&quot;&gt;Mullinsのイデオロギーの定義&lt;/a&gt;を参考にしています）、1番目に挙げた「認識の地図」の構成要素には「過去・現在・未来の認識」が含まれると言われています。つまり、これからの思想を考える上では、未来を考えるのと同時に、これまでの歴史を捉え直す作業も欠かせません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして最近、戦後を振り返る書籍が多く発刊されつつあり、そうした歴史の見取り図を引こうという作業が方々で行われているように思います。そんな中で、専門家ではない自分が歴史を大まかに見るのは少し気が引けるところもありますが、資本や事業にかかわる今後の思想を考えていく上で、ここ数十年の歴史について、ビジネスに役立つ形でざっくりとした見取り図を描く作業もあってもよいのでは、と思うようになりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこで一つの試みとして、ここでは&lt;strong&gt;戦後を1945–1970年、1970–1995年、1995–2020年、2020–2045年と25年ずつに区切り、四半世紀ごとの変化を整理してみたい&lt;/strong&gt;と思います。そうすることで、これからの2020–2045年の輪郭が見えやすくなるのではないか、というのがその背景の意図です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これから詳しく話していきますが、それぞれの時代が直面した課題や、そこから生じた問い、そしてその主な引き受け手を振り返ると、大まかには次のような流れをたどってきたように思われます。&lt;/p&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;1945年の終戦後には、どのような国家や社会をつくり直すかという問いを、国家と企業が中心となって引き受けました。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;1970年ごろからは、豊かになった社会でどのような暮らしを築くかという問いを、家族や地域、組合などの身近な集団が引き受けました。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;1995年以降は、所属する組織による保障が揺らぐなかで、自分はどう生き、働き、支え合うかという問いを、主に個人が引き受けるようになりました。同時に、個人が自ら事業や活動を立ち上げ、組織をつくる自由も広がっていきました。ただし、雇用や資本配分を決める力は個人ではなく、企業と国境を越える資本の側に集まっていきました。&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;そして2020年代以降は、感染症や安全保障、脱炭素、そして人口減少など、「&lt;strong&gt;個人や個別の組織では引き受けきれない規模の問い&lt;/strong&gt;」が、改めて前面に出てきていると感じています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうした問いに向き合うには、集団としての意思と力が必要です。しかし、後述するように、この数十年をかけて、問いの引き受け手は徐々に個人へと移行してきたように思います。そこから再び一気に国家のような集団へ権力をまとめようとすると強い反発を生みかねませんし、また安易に権力の集中を進めれば、国家を中心とした全体主義的な統制に傾く危険も否定できません。特に昨今はテクノロジーの進展により、過去に比べて国家等の強権を持つ主体による統制がしやすくなっているという面もあり、そのリスクは増しています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして一方で、国境を越えて影響力を持つ民間プラットフォーム企業が台頭するなかでは、国家に権能を集めたところで解決できるとは限らないという面もあります。そうした意味でも、過去に戻ることとは異なる形で、今からの在り方を考えていかなけらばならないのだろう、と感じています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その意味で、個人の自由を保ちながら、大きな問いを共同で引き受ける仕組みをどう形成していくかが、いま私たちが直面している課題なのではないかと考えています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/japan-postwar-25-years/20260915003532.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;25年単位で補助線を引いて比較する問いと引き受け方&quot;&gt;25年単位で補助線を引いて比較する問いと引き受け方&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ここからは、終戦の年である1945年を起点として、四半世紀（25年）ごとの補助線を引きながら時代を振り返っていきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;25年という区切りはあくまで一つの補助線にすぎませんが、この単位を選んだのにはいくつかの理由があります。&lt;/p&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;100年という時間を思想の視点から捉え直す際、10年単位では細かすぎ、50年では大まかすぎるため、20〜25年程度の間隔で眺めたほうが現在への見通しを立てやすいこと&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;大阪万博が開催された「1970年」という象徴的な節目があること（以前の「思想と資本」シリーズでも1970年を一つの区切りとして扱いました）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件が起きた「1995年」という大きな転換点があること（辻田真佐憲氏も1990年代を区切りとし、とりわけ&lt;a href=&quot;https://youtu.be/Y5e5wcvKiUE?si=rlF75cDBAArLvYhl&amp;amp;t=916&quot;&gt;1995年&lt;/a&gt;ではないかと論じられています）&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;新型コロナウイルス（COVID-19）の感染拡大が始まった「2020年」という明確な断絶があること&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;次の「2045年」がちょうど戦後100年の節目にあたること&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;もちろん、石油危機など他の出来事を契機として区切ることも可能ですが、全体の構造を把握しやすくするためにこの四半世紀区分を採用しています。その上で、各期間における「本稿で注目する問い」と「その主な引き受け手」を整理すると、次のような対応関係になります。&lt;/p&gt;






























&lt;table&gt;&lt;thead&gt;&lt;tr&gt;&lt;th&gt;時期&lt;/th&gt;&lt;th&gt;本稿で注目する問い&lt;/th&gt;&lt;th&gt;主な引き受け手&lt;/th&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/thead&gt;&lt;tbody&gt;&lt;tr&gt;&lt;td&gt;1945–1970年&lt;/td&gt;&lt;td&gt;戦後の日本を、どのような国や社会につくり直すか&lt;/td&gt;&lt;td&gt;国家・企業&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;tr&gt;&lt;td&gt;1970–1995年&lt;/td&gt;&lt;td&gt;豊かになった社会で、どのような暮らしを築くか&lt;/td&gt;&lt;td&gt;家族・地域・組合&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;tr&gt;&lt;td&gt;1995–2020年&lt;/td&gt;&lt;td&gt;自分はどう生き、働き、支え合っていくか&lt;/td&gt;&lt;td&gt;個人&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;tr&gt;&lt;td&gt;2020–2045年（推測）&lt;/td&gt;&lt;td&gt;個人の自由を保ちながら、誰と何を、どう共同で引き受けるか&lt;/td&gt;&lt;td&gt;問い直される「私たち」（連携する共同の主体）&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;
&lt;p&gt;ここからは三つの道筋で時代を見ていきたいと思います。まず国内を1945年から現在まで進み、次に1945年から1870年まで遡って戦後の長さを相対化し、最後に1870年から世界の側で現在まで時間を進めます。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;国家と企業が再建と成長を担った19451970年&quot;&gt;国家と企業が再建と成長を担った1945–1970年&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;1945年8月に日本は終戦を迎えました。終戦直後の日本が直面した課題は、生活や産業の復旧にとどまらず、国家の制度そのものを組み直すことでした。連合国軍による占領のもとで日本国憲法の制定や民法改正が進み、統治の仕組みや家族に関わる諸制度が大きく刷新されます。「&lt;strong&gt;これからの国や社会をどうつくり直していくか&lt;/strong&gt;」という課題が、切実な問いとして人々の目の前にありました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;政府は占領当局と折衝しながら制度を整え、企業は生産と雇用の回復を急ぎ、さらに朝鮮戦争による特需などを契機として、日本は安全保障の多くを米国に委ねつつ経済発展に資源を集中させ、企業も急速な成長を遂げていきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その成長の過程では、労働組合や社会運動が活発化し、権利の確立や成果の公平な分配を求める強い動きも見られました。しかし、社会を動かす力の実質的な中心にあったのは、やはり国家と企業だったと考えられます。両者は政策や方針をすり合わせながら、その実行に必要な資金や組織を動かす主役として機能していました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;特に企業は、人々が働いて所得を得る場であると同時に、豊かな生活に必要な物資を供給する中心的な担い手でもありました。&lt;a href=&quot;https://www.archives.go.jp/learning/archive_collection_8/&quot;&gt;高度経済成長期には家電製品や自動車が急速に普及&lt;/a&gt;し、日々の生活様式も一変したほか、生産や雇用の拡大を牽引する企業の活動を通じて、国全体の経済成長が一人ひとりの働き方や家庭の暮らしと直接に結びついていた時代だったと言えます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あわせて、生活を支える社会保障の網も広がっていきました。&lt;a href=&quot;https://www.mhlw.go.jp/stf/web_magazine/closeup/24.html&quot;&gt;1961年には国民皆保険・皆年金が実現&lt;/a&gt;し、雇用者だけでなく自営業者や農業従事者も含めて、公的な医療保険や年金に加入する体制が整います。病気や老後のリスクに備える仕組みを国が設計し、国民が保険料を拠出して支え合う構造は、生活を安定させる強固な柱となりました。企業からの勤労所得と公的な社会保障制度が両輪となることで、家族の生活を支える基盤が確立されたのがこの時代です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/japan-postwar-25-years/20260915003556.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とはいえ、そうした成長と分配の恩恵から取り残された人々も少なくありませんでした。深刻な公害に苦しむ地域が生じ、安定した正規雇用の枠外に置かれた層も存在していました。家庭内では、家事や育児・介護といったケア労働の多くを女性が無償で担い、外での経済活動への参加が制約されていました。また、1972年まで米国の施政権下におかれていた沖縄のように、この時期の「私たち」の枠組みから構造的に外側に置かれていた地域や人々もいました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このうち家庭内の性別分業は、この時期には解決すべき問題としてより、企業が男性の長時間労働を前提に成長し、その男性を家庭が支えるという成長モデルの前提として扱われていたように思います。負担は課されていながら、それが負担として数え上げられず、国家と企業が引き受けた「国や社会をどうつくり直すか」という問いの外側に置かれていたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;所得が向上し物質的な豊かさが実現した一方で、公害問題やケア負担の偏りといった歪みが蓄積していったのが、この最初の四半世紀でした。そのため社会の関心は次第に、「手にした豊かさをどのような暮らしに結実させるか」という、家族や地域といった身近な集団における問いへと移っていくことになります。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;暮らしの要求と選択が広がった19701995年&quot;&gt;暮らしの要求と選択が広がった1970–1995年&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;1970年ごろからの四半世紀では、企業の雇用と国の社会保障に支えられた暮らしを前提としながら、人々が何を求め、生活の質をどう高めようとするのか、その力点が大きく変化していきました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;人々の豊かさに対する意識に顕著な変化が現れたのもこの時期です。&lt;a href=&quot;https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/roudou/10/dl/02-3-1.pdf&quot;&gt;厚生労働白書が引く内閣府の世論調査&lt;/a&gt;を振り返ると、1970年代に入って「物質的な豊かさ」を重んじる回答と「心の豊かさやゆとり」を重視する回答が拮抗し始め、70年代後半には後者が前者を上回るようになります。生活の質的な充実を求める動きの背景には、何を豊かさと見なすかという価値観自体の転換があったと考えられます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、この時代に暮らしの基本単位となったのが「家族」でした。住まいの選択や家計の使途、子どもの教育や老後の生活設計に向き合う中心は家族でした。家族はその中で誰が働き、誰が育児や介護を担うかを配分・調整しながら、望ましい暮らしを具体化しようとしました。生活上の多様な選択やケアの責任といった問いを日常的に引き受けていたのは、まさにこの家族という単位であり、特に1960年代に急増した核家族だったと言えます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、公害による健康被害や生活環境の悪化、賃金や労働時間、食品の安全性といった問題は、個別の家族の努力だけで解決できるものではありません。こうした共通の生活課題に対しては、住民組織や地域コミュニティ、労働組合、生活協同組合などの多様な中間集団が結成され、行政や企業に対して環境改善や制度拡充を求めていきました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;単独の個人ではなく、まず家族という親密圏があり、さらにその家族と国家との間を媒介する中間的な集団が活発に機能していたのが、この時代の特徴でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/japan-postwar-25-years/20260915003634.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もっとも、こうした家族や集団は人々を守るセーフティネットとなった一方で、その内部の役割分担には前の時代とは別の問題が現れました。前の四半世紀に成長モデルの前提として定着した、男性の終身雇用と女性の無償のケア労働という世帯モデルが、今度は家族が暮らしの問いを引き受けるときの初期条件になったのです。住まいや教育、老いた親の介護といった問いを家族が引き受けるほど、その負担は家庭内の女性に集中しました。しかも、何を選び誰が担うかを決める力は世帯内で対等ではなく、負担を担う側が決定に関与しにくいという構造が、家族という単位の内側に再現されていたと考えています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;同時にこの時期には、この役割分担そのものが争点になります。女性の社会進出や男女平等を求める運動が広がり、雇用の平等が制度の課題になる一方で、専業主婦世帯を前提とした税や年金の仕組みも整えられていきました。家族は問いを引き受ける主体であると同時に、その内部の配分が問い直される場でもあったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;また、地域コミュニティの同調圧力やわずらわしさに息苦しさを感じる個人も少なくありませんでしたし、企業の正社員雇用や標準的な家族の枠組みから外れた人々に対する包摂の不十分さも依然として大きな課題でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こうした抑圧や不平等を解消しようとする社会運動や制度改革の試行錯誤を経て、問いを引き受ける単位は、徐々に集団から個人へとシフトしていくことになります。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;個人の選択と負担が問われた19952020年&quot;&gt;個人の選択と負担が問われた1995–2020年&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;1990年代に入り、バブル経済の崩壊を経てグローバリゼーションとリベラリズムが浸透するなかで、さまざまな課題や問いを引き受ける単位は、組織や集団から個人へと本格的に移行していきました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;個人の自律的な選択と自己責任を重んじる潮流は、当時の政策方針にも明確に示されています。1999年の経済企画庁による&lt;a href=&quot;https://www5.cao.go.jp/99/e/19990705e-keishin-pamph.html&quot;&gt;「経済社会のあるべき姿と経済新生の政策方針」&lt;/a&gt;では、個人の自由と自己責任を行動原理の基本に据え、多様な職業選択や挑戦を後押しする環境整備が提唱されました。一人ひとりが自らの意思で進路を切り拓くことが促され、その自由な選択を支えるための制度的基盤が模索されていたと言えるでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;同時に、個人が主体となって活動を起こすための道具や環境も大きく広がりました。インターネットの普及によって個人が世界に向けて直接発信し、志を同じくする協力者や顧客を見つけ、大組織に属さずとも事業を立ち上げることが可能になりました。また非営利の領域においても、1995年の阪神・淡路大震災における広範なボランティア活動の高まりを契機として、1998年に特定非営利活動促進法（NPO法）が制定・施行され、市民が自発的に社会課題の解決に取り組む新たな回路が開かれました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この四半世紀において個人は、家族や地域、企業といった既存の共同体の拘束から解放され、生活や雇用の選択を自ら引き受けることを求められる存在になりました。その反面、新しい仕事や支え合いの仕組みを自律的に生み出していく主体としての自由を獲得したとも言えます。自ら問いを立て、仲間を募り、必要に応じて自前の組織を立ち上げるという引き受け方です。従来の固定的な役割に馴染めなかった人々にとっても、自らの可能性を切り拓くための技術や制度的基盤が整っていきました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この時代の後半、とりわけ2010年代に活発化したスタートアップや起業、あるいはSNS等で目立つ個人インフルエンサーといった現象も、個人を起点として問いを引き受けるための代表的な装置として機能したと考えています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただし、問いの引き受け手が個人へ移ったにも関わらず、力の所在が個人へ移ったかというと、そうではない面も多くありました。この四半世紀に雇用の形や資本の配分を実際に決めていたのは、個人ではなく企業と、国境を越える資本でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;1999年の労働者派遣法改正で派遣の対象業務は原則自由化され、2004年には製造業への派遣も解禁されます。&lt;a href=&quot;https://www.stat.go.jp/data/roudou/longtime/03roudou.html&quot;&gt;非正規雇用の比率は1990年の約2割から2019年には4割近く&lt;/a&gt;に達し、雇用の変動リスクは個人の側へと移されました。同じ時期に企業の内部留保は積み上がり、2015年のコーポレートガバナンス・コード以降は、労働者ではなく、株主への還元が重視されるようになります。個人の自己責任という規範は、資本と労働の移動可能性を高めるために要請された規範でもあったように思います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一方で、日本企業そのものは、1945–1970年に担っていた引き受け手の役割から降りていきました。バブルの後始末等を行いながら、並行して電機や半導体で国際的な地位を失い、終身雇用と企業内福祉を縮小するなかで、企業は雇用と生活保障を引き受け、その対価として社会的な正統性を持つ存在ではなくなっていきます。その空白を埋めたのが、海外の投資家や格付け機関といった国境を越える資本と、個人自身でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;個人のエンパワーメントを支えた道具もまた、多くは海外のプラットフォームでした。個人が世界に発信できたのはGoogleやFacebookの上であり、スタートアップはベンチャーキャピタルの資本の上で、個人の商売もプラットフォームが用意した市場の上で成り立つようになっていきます。個人の自由の基盤を供給していたのは国境を越える企業であり、その基盤の利用条件を決めていたのも彼らでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そしてそうしたプラットフォームを持つ起業家やVCという個人が力を持つようになり、富と名声、そして権力を集めていくことになります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;総じて2020年までの四半世紀は、日本企業が長期雇用等による実質的な社会保障の担い手だったところから退き、個人のエンパワーメントが大きく前進した時代でした。しかしその一方で、構造的な格差やセーフティネットの不備が「自己責任」の名のもとに個人の努力不足へと転嫁され、個人間の過酷な競争が起こり、自己責任や能力主義の規範を個々人が内面化していった時代でもあったと言えます。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;供給と調整の課題が重なる2020年代&quot;&gt;供給と調整の課題が重なる2020年代&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;2020年代を迎えると、社会が直面する課題や問いの質が大きく変容してきました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;2020年に始まった新型コロナウイルスの世界的な流行では、医療サービスの供給能力そのものと、逼迫する資源をいかに配分するかという調整能力の双方が厳しく試されました。また、2010年代後半から先鋭化してきた米中の地政学的対立は、個々の企業の努力で対処できる範囲をはるかに超えた国家規模での対応を迫っています。さらに2022年のロシアによるウクライナ侵攻を契機として、エネルギーや食料、半導体をはじめとする重要物資のサプライチェーン確保が、国家の安全保障に直結する死活問題として再認識されるようになりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;加えて脱炭素社会への移行には、社会インフラ全体の抜本的な再構築と、数十年におよぶ巨額の長期投資が必要になります。しかもその需要側はグローバル市場であり、国内の判断だけで完結しません。国内に目を向けても、急激な人口減少と少子高齢化が進むなかで、様々な構造的課題に直面しています。たとえば医療や介護の担い手をいかに維持するのか、社会のインフラや居住地域をどのように計画的に縮退・再編させていくのか、そしてその過程で生じる過重な負担を誰がどのように分担するのか、といった課題です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、感染症の脅威や戦争、地球環境の危機、あるいは人口動態やインフラの老朽化といった問題は、2020年を境に突如として生じたわけではありません。しかし、これらの難題が複合的に重なり合うなかで、「個人の自由な活動を支えているはずの供給基盤や社会制度、そして秩序そのものを、一体誰が維持し、支え続けるのか」という問いが、改めて社会の前面に浮上してきたと捉えられます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;歴史に厳密な25年周期が存在するわけではありませんが、こうして四半世紀の歩みとして振り返ってみると、いま私たちが立っているのは、まさに問いの次元そのものが根本から転換しつつある過渡期なのではないかと感じられます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そしてここまでの内容だけを見て事業を考えると、「国家と同一化した事業構築やスタートアップをしていくことが、今後儲けるための近道では」と思われるかもしれません。そうした結論に飛びつく前に、もう少し引いて歴史を見てみたいと思います。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;戦後を相対化するために1945年から1870年へ遡る&quot;&gt;戦後を相対化するために1945年から1870年へ遡る&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ここまで1945年から2020年代までの歩みを、問いの引き受け手が国家や企業から家族や地域へ、そして個人へと移っていく過程として見てきました。この節では一度視点を切り替え、1945年から25年ずつ時計の針を巻き戻して1870年まで遡ってみたいと思います。目的は、戦後の75年という時間を、その手前にある同じ長さの75年と並べることで相対化することです。遡る際にも、その時代の問いを誰が引き受けていたのかという、同じ視点を使います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まず起点となる1945年時点では、生産、資金、労働力、言論のすべてが国家総動員法（1938年）のもとで戦争遂行に組み込まれていました。問いを引き受けていたのは国家であり、国民は動員される担い手として、負担だけを引き受けていた状態です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その一つ手前にあたる1920–1945年は、国民が引き受け手の側に加わりかけた直後に、引き受け手が再び国家へと固定されていった四半世紀でした。&lt;a href=&quot;https://www.ndl.go.jp/modern/cha3/description13.html&quot;&gt;1925年の男子普通選挙法&lt;/a&gt;によって納税要件が撤廃され、有権者の数は約4倍に急増します。しかし同じ1925年には治安維持法が制定され、国家のあり方そのものを問う議論は言論の枠外へと追いやられました。女性の参政権も認められないままです。さらに1932年の五・一五事件によって政党政治の慣例が崩壊し、決定の重心は軍部や官僚機構へと移っていきます。普通選挙の実現からわずか10年余りで、国民は問いの引き受け手ではなく、国家が引き受けた問いへの動員の対象へと戻されていったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さらに一つ手前の1895–1920年は、負担を担った人々が、自らも引き受け手になることを求めて立ち上がった四半世紀でした。1895年に終結する日清戦争、1904年から始まる日露戦争、そして1914年の第一次世界大戦を支える戦費と兵力は、増税や徴兵として国民に広く課されました。その意味で、1905年の&lt;a href=&quot;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%AF%94%E8%B0%B7%E7%84%BC%E6%89%93%E4%BA%8B%E4%BB%B6&quot;&gt;日比谷焼打事件&lt;/a&gt;は戦争の負担に耐えた国民が講和条約に納得しなかったことへの抗議であり、1918年の米騒動は戦時インフレによる生活困窮に対する異議申し立てでした。この米騒動を契機として本格的な政党内閣が誕生し、普通選挙を求める運動が全国的な高まりを見せることで、1925年の普通選挙の実現へとつながっていくと見ることができます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そしてもう一つ手前の1870–1895年は、明治維新（1868年）の直後に近代国家の骨格をつくり上げた四半世紀です。「近代国家をどうつくるか」という問いの引き受け手は明治政府であり、政府が何よりも優先して整えたのは、国民から負担を徴収するための制度的な経路でした。1872年の学制、1873年の徴兵令と地租改正によって、教育、兵役、納税の義務が、旧来の藩や村の仲介を経ずに国民一人ひとりへ直接課されるようになります。一方で、国民が引き受け手の側に加わるための回路の整備は大きく遅れ、国家や華族が一手に牽引することになります。1890年にようやく帝国議会が開設されたものの、有権者は直接国税15円以上を納める満25歳以上の男性に限られ、その数は総人口の1%強にすぎませんでした。自由民権運動は、負担を担う側からこの回路を求めた運動だったと言えます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こうして1870年まで遡ってみると、戦前の75年は、問いの引き受け手が一貫して国家に固定されていた時代だったことが見えてきます。国民や企業は負担の担い手ではありましたが、引き受け手の側に加わることは最後まで限定的なままでした。これに対して戦後の75年は、引き受け手そのものが国家から企業へ、家族や地域へ、そして個人へと降りてきた時代とも言えます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その上で、時間の長さそのものにも目を向けてみたいと思います。1870年から敗戦に至る75年と同じだけの時間を、戦後日本はすでに2020年の時点で歩み終え、現在地はそれを超えた先にあります。&lt;/p&gt;
&lt;pre class=&quot;astro-code github-dark&quot; tabindex=&quot;0&quot; data-language=&quot;plaintext&quot;&gt;&lt;code&gt;&lt;span class=&quot;line&quot;&gt;&lt;span&gt;戦前 75年   1870 ---- 1895 ---- 1920 ---- 1945&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;
&lt;span class=&quot;line&quot;&gt;&lt;span&gt;                                          |&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;
&lt;span class=&quot;line&quot;&gt;&lt;span&gt;戦後 75年                                 1945 ---- 1970 ---- 1995 ---- 2020 -- 現在&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;&lt;/code&gt;&lt;/pre&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/japan-postwar-25-years/20260915003729.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;戦前の75年の間に、日本は近代国家の土台を築き、列強の一角へと登りつめ、やがて国家総動員に至りました。戦後の75年は同じ長さの時間のあいだに、引き受け手の所在がそれぞれ大きく動いています。戦後の75年というのは急速に変化した時代だったと考えられますし、2020年から今後についても、大きな変化が起こってもおかしくはないということです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただし、この遡行はあくまで国内の出来事だけを追ったものです。1870年の国づくりも、その後の75年の歩みも、実際には世界から日本に向けられた問いに答える形で進められてきました。そこで次の節では、1870年に立ったまま向きを変え、今度は世界の側から時間を進めてみたいと思います。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;世界からの問いは誰に届いたか-18702020年代&quot;&gt;世界からの問いは誰に届いたか 1870–2020年代&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;日本における各四半世紀の変遷は、常にその時々の国際環境のなかで進んできました。とりわけ戦後の日本は、安全保障と国際市場の秩序維持の多くを米国に委ねることで繁栄を築いてきました。その委ねてきたものが何で、それがどのように変化してきたのかを把握しておかなければ、2020年代以降に私たちが問うべき問いを見誤ってしまうと考えています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこでこの節では、視点を世界の側に置き直して眺めてみます。世界が日本に何を問うて、その問いが国内の誰に届き、日本は何を引き受けて、逆に何を委ねてきたのかを、国内編と同じ四半世紀ごとの補助線を用いながら、1870年から時間順に辿ってみたいと思います。国内の歩みを追った節が、問いの引き受け手の移り変わりを「内側」から見たものだとすれば、この節は同じ移動を国際環境という「外側」から捉え直す試みです。&lt;/p&gt;





















































&lt;table&gt;&lt;thead&gt;&lt;tr&gt;&lt;th&gt;時期&lt;/th&gt;&lt;th&gt;世界が日本に向けた問い&lt;/th&gt;&lt;th&gt;問いの宛先&lt;/th&gt;&lt;th&gt;日本の答え方（引き受けたもの／委ねたもの）&lt;/th&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/thead&gt;&lt;tbody&gt;&lt;tr&gt;&lt;td&gt;1870–1895年&lt;/td&gt;&lt;td&gt;開国せよ&lt;/td&gt;&lt;td&gt;国家&lt;/td&gt;&lt;td&gt;近代国家を急いでつくる&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;tr&gt;&lt;td&gt;1895–1920年&lt;/td&gt;&lt;td&gt;列強の一角として振る舞え&lt;/td&gt;&lt;td&gt;国家&lt;/td&gt;&lt;td&gt;アジアの列強の一角に。総力戦に耐える国家をつくり、負担を国民に広げる。債権国へ転じる&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;tr&gt;&lt;td&gt;1920–1945年&lt;/td&gt;&lt;td&gt;恐慌と対立のなかでも、国際協調を保て&lt;/td&gt;&lt;td&gt;国家&lt;/td&gt;&lt;td&gt;大国間の協調が弱まるなか、日本も対外拡張を進める。連盟脱退を通告（1933年）し、やがて総力戦へ向かう&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;tr&gt;&lt;td&gt;1945–1970年&lt;/td&gt;&lt;td&gt;西側の一員として復興せよ。安全保障は委ねよ&lt;/td&gt;&lt;td&gt;国家。輸出と雇用の担い手として企業へ届き始める&lt;/td&gt;&lt;td&gt;安全保障の多くを米国に委ね、国家・企業が復興と成長を担う&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;tr&gt;&lt;td&gt;1970–1995年&lt;/td&gt;&lt;td&gt;経済大国として、市場を開き、貿易不均衡を調整せよ&lt;/td&gt;&lt;td&gt;企業・国家&lt;/td&gt;&lt;td&gt;企業と国家が貿易摩擦・円高への対応を担い、家族・地域・組合が国内の暮らしを支える&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;tr&gt;&lt;td&gt;1995–2020年&lt;/td&gt;&lt;td&gt;グローバル・スタンダードに合わせよ&lt;/td&gt;&lt;td&gt;企業・個人&lt;/td&gt;&lt;td&gt;海外の資本・活動基盤を利用し、個人の自由を広げる一方、対応の責任も個人に求める&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;tr&gt;&lt;td&gt;2020年代&lt;/td&gt;&lt;td&gt;秩序のコストを分担せよ＋？&lt;/td&gt;&lt;td&gt;？&lt;/td&gt;&lt;td&gt;答えは定まっていない。少なくとも、委ねていたものへの支払いや、先送りしていたことへの問い直しが行われ始めている&lt;/td&gt;&lt;/tr&gt;&lt;/tbody&gt;&lt;/table&gt;
&lt;p&gt;1870年から1945年までの三つの四半世紀において、世界からの問いの宛先は一貫して国家でした。最初の問いは「開国せよ」でした。その後、日清戦争を通じて列強間の競争に参入し、日英同盟（1902年）を経て列強の一角に加わり、第一次世界大戦を経て債権国へ転じるころには、世界からの問いは「列強の一角として振る舞え」へと変化していました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;1920年以降になると、世界からの問いは「恐慌や対立のなかでも協調を保ち、国際秩序の内側に留まれ」というものへと変わります。しかし1929年の世界恐慌ののち、主要国は自国通貨圏によるブロック経済へと閉じこもり、当時最大の経済力を持っていた米国も国際秩序の維持を能動的に引き受けようとはしませんでした。秩序の内側に留まれと求める世界の側にも、その秩序を支える引き受け手が存在しなかったのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;日本はやがて満洲事変を経て国際連盟を脱退し、その延長線上で総力戦へと突き進むことになりました。第二次世界大戦末期に構想されたブレトンウッズ体制や国際連合の設立は、まさにこの反省の上に設計されたものでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;1945–1970年に世界が、実質的には米国が日本に向けた問いは、「西側の一員として復興せよ、安全保障は委ねよ」というものでした。同国は金・ドル本位制やマーシャル・プラン、GATTやNATOなどを通じて自由主義陣営の同盟国に防衛体制と開かれた市場を提供し、その見返りとして国際秩序の意思決定を主導しました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;日本は日米安全保障条約のもとで防衛の多くを委ね、経済成長に資源を集中させます。このときの問いの宛先は国家でしたが、その答えを実質的に担ったのは輸出と雇用を牽引した企業であり、問いの届き先が国家から企業へと広がり始めました。前の節で触れた国家と企業による復興・成長モデルは、防衛と国際市場という外部環境を外側に委ねた上で初めて成り立っていた仕組みだったと言えます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;続く1970–1995年には、ニクソン・ショックや二度の石油危機、変動為替相場制への移行を経て、米国は新自由主義的な市場経済モデルへと舵を切ります。日本はこの時期、米国が維持する秩序の内側で最大の経済的挑戦者となり、世界からの問いは「貿易黒字を還流し、国内市場を開放せよ」へと変わりました。日米貿易摩擦や1985年のプラザ合意はその象徴です。摩擦の最前線に立っていたのは輸出企業であり、対外的な対応も企業の自律的な行動として求められたため、世界からの問いの宛先はこの段階で企業へと移っていきました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここで注目したいのは、外からの問いと内からの問いが、それぞれ別々の相手に届いていたという「ずれ」です。外側からは市場開放をめぐって企業に問いが届く一方で、内側では暮らしの問いを家族や地域、組合といった中間集団が引き受けていました。世界において問いの引き受け手が市場や企業へと移行しつつあったこの四半世紀において、日本国内では依然として親密圏や地域社会がまだ比較的機能していた、ということです。国内で問いの単位が市場や個人へと本格的にシフトするのは1995年以降のことであり、この時間差が、後の時代において短期間での急激な変化を強い、過酷な自己責任論へとつながっていった可能性もあると考えています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;1995–2020年には、WTO（世界貿易機関）の発足や中国の加盟を経て、ヒト・モノ・カネ・情報が国境を越えて活発に行き交うグローバル化が進展します。世界からの問いは「グローバル・スタンダードに合わせよ」へと変わり、その宛先は企業を飛び越えて一人ひとりの生活者へと直接降りていきました。1999年の政策方針が個人の自由と自己責任を行動原理に据えたことや、非正規雇用の拡大によって雇用の変動リスクが働く人々の側へ移された背景には、こうした外的な要請があったとも考えられます。自己責任という規範が資本や労働の流動性を高めるために求められたものだったとすれば、それは国際社会と個人が直接つながり、そして国際社会から個人へと直接投げかけられた問いでもあったと考えられます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして日本はこの四半世紀の間に、経済の基本ルールやデジタル基盤、そして資本の調達を海外、特に米国に委ね、その前提の上で個人の活動の自由を広げていきました。個人が世界に向けて情報発信できたのは巨大な海外プラットフォームの上であり、その利用条件を決定していたのも国境を越える巨大テック企業です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;結果として、国内における国家の存在感は相対的に後退していきました。同じころ、2008年の世界金融危機を経て中国がGDPで日本を追い抜き、米国社会の内部でも「なぜ自国が莫大なコストを払ってまで世界の秩序を支え続けなければならないのか」という不満が噴出するようになり、「米国は世界の警察官ではない」という2013年のオバマ大統領の発言につながります。世界が米国に委ねていたものへの支払いは、すでにこの時期から用意され始めていたと言えるでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして2020年代を迎え、米中対立の激化やロシアによるウクライナ侵攻を経て、世界からの問いは「国際秩序のコストを分担せよ」という厳しい要求へと変貌しました。米国は関税措置や先端技術の輸出規制を通じて、同盟諸国に対しても相応の負担分担を強く迫るようになっています。かつて秩序を供給してくれた大国が、負担の対価を厳しく求める側へと転じたということです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして、ここまで述べてきた「世界」というものは、主に欧米を中心とした「世界」でしたが、この20年、グローバルサウスを含めて、様々な国々がこの世界の輪の中に入ってきています。そしてこうした国々は、まさに今、気候変動などのコスト負担を大きく受ける国々であり、そのコストをどのように世界中で分担するのかという問いは、まだ解決できていません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;同時期、各国国内でグローバリゼーションの影響による雇用等の不安定化に伴って、政治的にも産業政策が復権し、さらに経済安全保障の危機が叫ばれるようになって、問いの宛先は再び国家へと戻ってきました。ただし、その引き受け手の候補は国家だけにとどまりません。二国間・多国間の同盟や地域ブロック、さらには国境を越えて強大な影響力を持つ米国のメガプラットフォーム企業が、かつてとは違い大手を振るう中で、日本とEUなどのミドルパワーの国々はそれに対する対案を持てていません。力関係がいびつなまま、誰がこの秩序を引き受けるべきなのか、その枠組みはいまだ定まっていない状況です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかも、問いの宛先が国家に戻ってきたとしても、それに答えるために必要な手段が国家の手元にあるとは限りません。雇用のあり方を決めるのは個々の企業であり、資本の配分を決めるのは国境を越える投資家等による資本であり、サプライチェーンを実際に動かしているのも民間の事業者だからです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;つまり、問いの引き受け手は1995年以降に個人へと降り、決定のための権力と能力はグローバルな資本に集まり、そして秩序の維持にかかる請求書が国家や企業、国民宛てに届いている、ということです。2020年代の困難の根底には、こうしたねじれが同時に生じているという構造的な現実があると考えています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こうしたなか、日本国内では明治初期の政治体制や戦後の高度経済成長期のような、かつての国家像へ回帰しようとする言説を目にすることが増えていますが、日本を取り巻く国際環境が根本から変容し、世界との結びつきを断ち切ることができない現状を踏まえると、過去の枠組みへの単純な回帰は現実的な解決策とは言えないように思います。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id=&quot;合流点としての2020年代&quot;&gt;合流点としての2020年代&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;こうして国内の歩みと世界からの視座という二つの道筋をたどってみると、双方が同じ構造的な移動を内と外から映し出していたことが見えてきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;内側では、問いの引き受け手が国家や企業から家族や地域へ、そして個人へと移っていきました。外側では、世界からの問いの宛先が国家から企業へ、そして個人へと向かっていきます。戦後日本の三つの四半世紀は、米国が支える国際秩序を自明の前提とし、その安全な内側で「国内の誰が課題を引き受けるべきか」を模索してきましたが、この内側と外側は、実は絡み合いながら並行して進んでいました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;2020年代に起きている事態とは、この二つの道筋が合流したことである、とも言えます。国内では少子高齢化やインフラの老朽化といった構造課題が限界を迎え、もはや個人や個別の組織だけでは抱えきれない規模の問いが前面に噴出してきました。同時に世界からは、これまで国際秩序を供給してくれていた外部の主体が、その維持コストを共同で分担するよう迫ってきています。国防や公正な市場ルール、エネルギーや食料、重要物資の安定供給といった基盤は、もはや無条件に与えられる前提ではなく、日本自身が他国と協調しながら能動的に引き受け、支えていくべき対象となりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そんな大きな問いが出され、それを誰が引き受けるのかが決まらないまま、そのコストの支払いを求める請求書が手元に届いている、というのが、私たちの現在地なのではないかと思います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/japan-postwar-25-years/20260915003832.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;h3 id=&quot;こうした変化の事業への影響&quot;&gt;こうした変化の事業への影響&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;そして請求書の宛先には、国家だけでなくビジネス側も含まれています。戦後の日本企業は米国の安全保障や開かれた市場、海外のデジタル基盤に乗り、秩序の恩恵を享受してきました。その秩序が崩れつつある今、関税や調達コストの上昇、防衛費を賄う税負担といった形で、かつて誰かが負担していた支払いが今まさに事業にも届き始めています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこで国家と事業が再び一体化する道もありうるでしょう。しかし戦後の一体化が機能したのは、外からの進路の提供や、国内での配分、米国のコスト負担という三つの条件が揃っていたからです。現在の国家は進路を迷っており、米中に比べると実効的な手段も持てておらず、日本の国家と事業が一体化したところで、明治時代あるいは戦後のような経済的繁栄は戻ってこないでしょう。雇用や供給網を握る事業側が国家を支える側に回り、何のためにそれを担うのかを自ら問わざるを得なくなります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかも、一体化の相手は自国の国家だけとは限りません。AIや半導体のような資本集約型の領域では米中が抜きん出ており、日本単独の一体化では勝負にならないからです。同盟や地域ブロック、巨大プラットフォームも引き受け手の候補となるなかで、誰を信用し、何を自前で持ち、何を誰と共同で担うのかを、事業の側で判断し直す必要があります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さらにいえば、誰かが設定した規範やルールのうえで戦い続ける限り、その胴元に勝つことは難しいでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それに国家が進路を見誤れば事業も立ちゆかなくなります。よって、事業が国家と一体化していくのであれば、なおのこと、国家の進路とその決め方を事業の側が主体的に考え抜く必要性が高まっていると考えています。それを間違えてしまうと、さらに大きな支払いをし続けることにもなりかねません。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;2045年に向けて問い続けたい五つのこと&quot;&gt;2045年に向けて問い続けたい五つのこと&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ここまでの歴史的な整理を踏まえ、私たちは2020年から2045年に至るこれからの四半世紀において、何を問い続けていくべきなのでしょうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;前の節で見たように、この問いはビジネスから遠いものではありません。&lt;a href=&quot;https://takaumada.com/blog/why-business-thought/&quot;&gt;以前の記事&lt;/a&gt;で書いたように、思想は政策レジームや個別の政策、市場を経て、ビジネスの条件そのものを変えていきます。安全保障や脱炭素をめぐる政策がすでにそうであるように、これからの四半世紀にどういった問いが前面に出て、それがどのような思想によって束ねられていくのかを追うことは、次に形成される事業条件を先読みし、危機が来る前に何を守るかを決めるための作業でもあると考えています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;戦後日本の三つの四半世紀においては、時代ごとの課題も、その引き受け手となる主体も、社会全体である程度共有されていました。しかし2020年代の困難は、個別の課題に対処する以前に、「そもそもどのような枠組みで問いを立て直すべきなのか」という前提そのものを再設計する必要がある、という点にあるのではないか、とも思います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;私自身まだその答えを出すことはできていませんが、私たちが未来に向けて問い続けるべき論点を五つに整理して提示してみたいと思います。その上で、この2020–2045年という四半世紀を、2045年以降の社会の暮らしを支える「新たな土台づくりの時期」として位置づけたいと考えます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;1870年からの四半世紀が1895年以降の近代産業と国家の基盤を築き、1945年からの25年間が1970年以降の豊かな生活の土台をつくったように、社会の基盤を築き直すには四半世紀ほどの時間を要するように思われます。人口減少と高齢化が不可逆的に進行しても人々の暮らしが穏やかに成り立ち、激変する国際秩序の中で自律的な位置を保ち続けるための、持続可能な生活と統治の基盤をどう世界と日本の中で作っていくのか、という問いです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/japan-postwar-25-years/20260915003912.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;(1) 「私たち」とは誰か&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;感染症の危機や安全保障環境の激変、脱炭素への移行、さらには人口減少といった課題は、単独の個人や個別の一組織だけで抱えきれるものではなく、何らかの共同の主体、すなわち「私たち」を結成して引き受けるほかありません。しかし、その「私たち」の輪の中には、一体誰が含まれるべきなのかという問いがまず生じます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;現在を生きる国内の有権者だけを見てみても、今は世代間で「私たち」の対立が見られます。それに加えて、現役世代だけにとどまるのか、将来において重い負担を背負うことになる未来世代を含むのか、あるいは医療・介護や物流、生産の現場を最前線で支えている外国人労働者や地域外の生活者まで包摂するのかという問いです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;誰を成員とするかは、「私たち」をどのような原理で束ねるかによって大きく左右されます。近代日本の既定路線は「国民国家」、すなわち国籍による統合でした。しかし、未来世代への配慮も、国境を越える移動者への対応も、国籍という単一の基準だけでは十分に扱い切れません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;統合の基盤となる選択肢としては、例えば次のような道が考えられます。（あくまで選択肢です）&lt;/p&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;憲法や立憲主義の手続きへの合意によって結びつくこと&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;同じ地域圏で暮らし、道路や医療などの生活インフラを共有する事実によって結びつくこと&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;共通の生活リスクに直面し、相互扶助や社会保険を共有する連帯を基盤とすること&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;望ましい社会像としての「共通善」を共有すること&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;特定の社会課題をともに解決するという事業目的に賛同して結びつくこと&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;どの原理を選択するかによって、誰が内側に入り、誰が外側に置かれるのかという境界線は大きく変わるはずです。国籍は未来世代や外国籍住民を包摂しにくく、地域生活圏は移動の多い現代人を捉えにくく、共通善の共有は合意形成が難しい代わりに強固な結束力を生み出します。単一の基盤に依存するのか、複数の基盤を重層的に重ね合わせるのかという構想が求められるのではないでしょうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あわせて、安全保障や気候変動のように国際秩序そのものを共同で維持していくのであれば、「私たち」の輪は国境の内側に閉じるわけにはいきませんし、閉じたところで実効的でもありません。どの国や地域と、どのような課題を共同で引き受けるのかという対外的な連帯のあり方も、この問いに含まれます。「私たち」を課題の引き受け手として構想することは、何によって結束し、誰をその枠組みの外に置くのかを決める作業そのものでもあります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;(2) 何を誰がどう共同で引き受けるか&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この問いは、「どこまでを共同で担うかという線引き」と、「それを具体的に誰が担うのかという割り当て」の二段構えで考える必要があると思います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まず、どこまでを共同で担うかという「線引き」についてです。戦後の約75年間における主要な関心事は、経済成長によって生み出された果実を「どのように公平に分配するか」という点が主でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし2020年代の日本において、私たちが直面しているのは、生活に必要な基盤を「そもそも安定して供給し続けられるのか」という、一段手前にある生産と供給の限界に関する問いです。医療や介護、エネルギー、食料、物流の担い手不足に加えて、資源価格の高騰にいかに社会全体で対処するかという課題も、すべて供給の維持に関わる問題です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さらに前述したように、防衛や市場ルール、基幹物資の調達といった、これまでは自明のものとして外部に委ねていた国際秩序の維持までもが、いまや日本社会も能動的に引き受けるべき課題となってきました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これらの課題のうち、どこまでを社会が一体となって引き受け、どこからを個人の自己責任に委ねるべきかが問われます。共同の範囲を広げすぎれば、国家による個人の統制という全体主義的なリスクを呼び込みかねませんし、逆に個人の領域に残しすぎれば、1995年以降の過酷な自己責任論をさらに加速させてしまい、現在のアメリカのような状況になるかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さらに、急激な人口減少のもとでは、これまでの拡大を前提とした制度設計から、規模の適正化を前提とした「縮小の設計」へと舵を切る必要があると考えています。何を畳み、何を守り、どの地域にどういった生活機能を集約していくのか、という判断です。もし受け皿となる拠点に十分な医療や交通の担い手が存在しなければ、拠点の集約は住民にとって長時間の移動や待機という過重な生活負担となって跳ね返ります。撤退する側に残される住宅やインフラの維持管理をどうするのかという問題も、未解決のまま残されます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;高度成長期に作られた諸制度は拡大局面の意思決定しか想定しておらず、縮小や撤退を決定するための公正な手続きと責任の所在は、ほとんど確立されていません。あわせて、政策の目標を「格差の是正」に置くのか、それとも「最低限の生活の安定」に置くのかという優先順位の整理も必要です。統計上の格差が拡大していなくても、インフレやサービス縮小によって生活実感が困窮していく事態は十分にあり得るからです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もう一つの側面として、それらの供給を具体的に誰が担うのかという「割り当て」の論点があります。1945年以降の国家と企業は公共サービスの供給基盤を、1970年以降の家族や地域は生活を支える調整の回路を、1995年以降の自立した個人は自ら問いを立てる自由を、それぞれ次の時代への遺産として残してきました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、現代の複合的な危機に対して、過去のいずれかのモデルへと単純に回帰すれば解決するというものではありません。国家は何を直営すべきなのか、民間企業はどこまで公共的な責務を負うべきなのか、機能不全に陥った地域や家族の穴を何が埋めるのか、そして起業家によるイノベーションはどこまで公共課題を解決しうるのか、といった役割分担の再設計が求められます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この割り当ては国内だけではなく、国際関係でも問われています。世界の側から見た節で触れたとおり、2020年代には同盟や地域ブロック、国境を越えるプラットフォーム企業も引き受け手の候補に並んでおり、何を国内で担い、何を他国や国外の企業と共同で担うのかも、この割り当てに含まれます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これらの線引きと割り当ては、実際には不可分の一体として決定されます。たとえば介護や育児を社会全体で引き受けると決めることは、その担い手を家族の無償労働から解放し、公的な専門職として適正に処遇することを決めるのと同義だからです。介護や育児の公的な支援を、働く人たちを増やすためのインフラとして見るのか、家族や個人で対応するべき仕事として見るのかは、大きく意見が分かれる可能性もあります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;(3) 利益と損失をどう配るか&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;いかに社会的な課題を共同で引き受けると理念を掲げたところで、その取り組みから生じる利益と損失が誰に帰属するのかという配分のルールが明確でなければ、現場の担い手も、民間の投資資金も、負担を引き受ける生活者も集まりません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;1945年以降の国家と企業による開発体制が国民に広く受け入れられた最大の理由は、高度成長によって生まれた利益が、賃金の継続的な上昇や終身雇用として社会の隅々まで還元されたからだと考えています。ここで論じるべき配分とは、単に余剰を分け合うための事後的な分配ではなく、人々が困難な役割を進んで引き受けるための動機づけとなる配分設計です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;まず、生み出された利益は誰に帰属するのかという問いがあります。労働者の賃金へと還元されるのか、それとも資本の側に配当として集中するのかという問題です。労働組合や産業別の労使交渉など、分配を調整してきた従来の回路が細るなかで、何がその代わりを果たしうるのかが問われます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;同時に目を向けるべきなのは、構造変化に伴う損失を誰がどう引き受けるのかという点です。技術革新や貿易構造の変化、産業の縮小によって失われる雇用や地域コミュニティの打撃は、特定の層に偏って集中し、その影響は長期化しがちです。打撃を受けた人々が、利益の生まれる新たな成長分野へ容易に移行できるとは限りません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さらに、リスクを取った結果としての「上振れ」の果実を誰が享受するのかという論点もあります。共同で引き受けた供給基盤の整備や公共投資が大きな成果を上げたとき、そのリターンは挑戦した起業家のものなのか、投資した公共のものなのか、あるいは広く利用者に還元されるべきなのかという、成果配分の公正さが問われます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして時間軸の視点として加えたいのが、世代をまたぐ配分の問題です。すでに資産を蓄積した層と、これから形成する若い世代とでは置かれた条件が根本から異なります。将来世代への負担の先送りも、時間軸上の不公正な配分だと言えます。2040年代以降に実を結ぶ長期投資の原資を誰が拠出し、経済成長を前提に作られた社会保障などの分配モデルを、低成長・人口減少の前提でどう再設計できるのかも、この問いに含まれます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さらにここまで説明してきたとおり、2020年代には、国の外から求められる負担を国内でどう配るかという論点が入ってきました。合流点の節で見たとおり、秩序のコストは外部から無条件に与えられるものではなくなり、日本自身が分担を求められ始めています。防衛費の増額、経済安全保障の名のもとにエネルギーや重要物資を自国や同盟国内で調達することに伴う価格の上昇、関税による輸出産業への打撃は、いずれも国内の誰かが負う負担になります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このコストを税として広く薄く負うのか、価格として消費者が負うのか、あるいは雇用として特定の産業や地域が負うのかは、まだ決められていません。逆に、経済安全保障の名のもとで進む産業政策や公共投資が利益を生んだとき、その帰属も同じ問いの対象となります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;現代において警戒すべき病理があるとすれば、利益は特定の富裕層や大企業に狭く集中し、構造改革に伴う損失や負担は同じ社会的弱者に重ねられ、政策の決定権は利益を享受する側の声に偏って傾いていく、という構図に向かう重力です。しかもそれが世界規模で起こり、AIやクラウド等の技術においては米中へと偏るかもしれない中で、日本がどのように冨を作り、それをどのように配分していくかは改めて大きな問いとなっていくでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;(4) どう決めて、どう修正し続けるか&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;感染症の急激な流行や地政学的有事といった突発的な出来事に対する迅速な対応に加えて、そうした出来事への準備、そして2040年代を見据えた長期的なインフラ整備や研究開発への投資といった時間軸の異なる意思決定を、どのように並行して行っていけるのかという難題がまず挙げられます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;また、人口減少に伴うインフラの撤退など、一度決断を下せば後戻りができない重大な判断に対して、目先の利害に流されやすい通常の多数決手続きをそのまま適用してよいのかという点も検討を要します。これは気候変動対策も同様で、現在投票権を持たない将来世代の長期的な利益と負担を、いかにして現在の意思決定に制度的に組み込むかという課題も無視できません。さらに、共同で政策や事業を引き受けたものの失敗に終わった際、その失敗を客観的に検証しながら、ときには柔軟に軌道修正を図る仕組みが社会に備わっているかも問われます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さらに2020年代には、決め方を問う以前に、決定の場そのものが国内になく、影響力を及ぼしづらいという事態も出てくるようになりました。関税や先端技術の輸出管理は米国が決め、同盟内の負担分担は外交交渉の場で決まり、個人や企業が活動の基盤とするプラットフォームの利用規約は、その運営企業が定めます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;国内でどれほど公正な手続きを整えても、負担を左右する重要な判断の一部が外で下されるのであれば、その決定にどう関与し、あるいはどう自律的な距離を取るのかまでが、決め方や統治の問いへとつながっていくことになります。そうした意味で、委ねていたものを引き受けるとは、外で決まった方針やルールに沿うだけの立場から、決定の場に参加する側へと移り、参加するためのコストや発言や提案をするためのコストを引き受けることでもあると考えています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あわせて注視すべきなのは、「なぜ明らかな不備を抱えた制度がいつまでも修正されないのか」という政治経済学的な問いです。労働法制や税制、社会保障制度に構造的な歪みがあると広く認識されていながら、その抜本的な改革は遅々として進みません。資産や強固な組織力を持つ既得権層と、非正規雇用や不安定な就労状況に置かれた層、あるいは新規のやり方を提案する層とでは、政治や政策形成の場に持続的にアクセスし、自らの声を届けるためのリソースに著しい差が存在します。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;経済的な優位性が政策決定における優位性を生み出し、その有利な政策が既存の経済的格差をさらに固定化・再生産するという悪循環は、強く警戒しておくべき構造的なリスクだと言えます。意思決定のあり方とそれを見直すプロセスを問い直すことは、2020から2045年の社会において主役となるべき若い世代を、いま社会全体でどのように育み、支援していくのかという教育や機会の保障の問いにも直結していると考えています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;strong&gt;(5) その中で個人の自由をどう保つか&lt;/strong&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;1995年以降の四半世紀において確立された、個人が生き方や働き方、協働する仲間を自律的に選び取る自由は守るべき前提であり、まだその自由を享受できていない人たちに対しても最大限拡張していくべきだと考えています。しかし一方で、集団としての意思と力を持たなければ、感染症や気候変動、安全保障等の大きな課題にも取り組めない、というジレンマがありますし、個人の自由を担保する前提としての互いの協力や基盤も必要です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして自由を実際に行使するには、形式的な選択肢の多さだけでなく、それを行使できる実質的な条件が整っていなければ、形骸化してしまいかねないように思います。たとえば、不当に条件の悪い仕事を断れることや、より良い環境や機会を求めて移れること、そして予期せぬ困難によって一時的に収入が途絶えても耐えられることなどです。こうした条件が整っていなければ、形式的には選択の自由があったとしても、それを仕えないまま終わってしまいます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そしてこうしたことを実現するには制度的基盤が欠かせません。劣悪な条件の労働を断るためには、当面の生活を支える資産や確実な公的給付が必要ですし、別の仕事や地域へと移るためには、職業的な学び直しの機会や、介護・育児といったケア負担を軽減するための時間と経済的支援が求められます。不測の事態に耐え抜くためには、雇用形態や就業状況が変わっても途切れることのない普遍的なセーフティネットが支えとなります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;戦後日本の社会設計において、これらの生活保障は主に企業の正規雇用と世帯内の扶養関係に強く紐づけられる形で提供されてきました。1995年以降に起きたのは、個人の自由が謳われる一方でこの旧来の紐づけが急速に解体され、生活を支える保障の基盤が外されたまま、過酷な自己責任だけが個人の肩にのしかかるという状況だったように思います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だからこそ、様々な世界的な状況の変化を見つつも、自由を行使するための前提条件を、社会全体としてどう保障していくかということを忘れてはならないのだろうと思います。その際、かつて企業や家族が果たしていた生活調整の機能を誰がどう引き受けるのかが大きな論点になります。そこでもまた、共同体としての在り方が問われるようになるでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;あわせて、個人が発信したり、商売をしたり、仲間を募る基盤の多くが、現在は国境を越えるプラットフォームの上にあり、その利用条件を個人の側では決められないことも、「断れる」「移れる」の実質を左右してしまっています。特定の雇用主に従属しない自由は、特定のプラットフォームに従属しない自由でもあるはずです。これをどこまで担保するのか、たとえばSNS等を国として持つのか、それとも海外のプラットフォーマーに制裁できる力を持つのか、といった様々な方法があり得ます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;また、社会保障を共同で手厚く担うことによって、かえって過度な受給要件による束縛や監視が強まり、個人の尊厳やプライバシーが損なわれるリスクをどう防ぐかという点も、慎重に見極めるべき論点です。家族に過度なケア負担を背負わせず、特定の雇用主に従属しなければ生きていけない脆弱さを克服する社会の設計が求められているのではないかと考えています。それは、自由を犠牲にした代償として保障を与えるのではなく、「自由を真に行使するための基盤として保障を整える」という思想の転換だと考えています。&lt;/p&gt;
&lt;hr&gt;
&lt;p&gt;こうした五つの問いへの答え、すなわち誰が何をどう引き受けるかを定めることが、そのまま思想の要素である規範や進路になると考えています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして五つの論点は相互に深く連動しており、一つの問いに対する選択が、他のすべての問いの前提を根本から規定するような関係性もあります。共同で引き受ける範囲を広く取れば「私たち」の境界は広がっていきます。負担を負う人たちに決定権を渡せば、その負担を避けようとして集約の速度は遅くなるかもしれません。答えを互いに整合させて進むためには、何をもって望ましい社会とするのかという規範（ものさし）を選ばざるを得ません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そしてもしそうした規範を私たち自身が設計できなければ、その空白に対して、海外から輸入される規範が入り込んできてしまうでしょう。『&lt;a href=&quot;https://takaumada.com/blog/technological-republic-acceptance/&quot;&gt;スタートアップの思想の空白&lt;/a&gt;』の記事で論じたとおり、私たちは考え方や製品を輸入することになれてしまっていますし、昨今はデジタルプラットフォームやAIなどを通して、その規範は入り込みやすくなっているようにも見えます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;逆に言えば、戦後長く委ねて後回しにしていた、戦後の国際社会における日本のアイデンティティや思想を改めて問うべきタイミングとも言えるのではないでしょうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこで現時点で確たる結論が出ているわけではありませんが、これまで紹介してきた新しい経済学や海外の政策アジェンダを手がかりにすると、ものさしの候補として以下のような方向性が考えられます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;整理の軸にしたのは、それぞれの構想が何によって結ばれた「私たち」を想定しているか、という違いです。問い(1)で挙げたように、「私たち」を結ぶ原理には、生活圏の共有、生活リスクの共有、事業目的への賛同、共通善の共有などがありました。結び方が決まれば、国内で誰を「私たち」に含めるかも、国の外で誰と何を共同で担うかも、同じ原理から導かれます。以下は各議論の要約ではなく、本稿の問いに引きつけた私なりの見取り図であり、それぞれの詳しい検討はリンク先の記事に委ねます。&lt;/p&gt;
&lt;ul&gt;
&lt;li&gt;「私たち」を&lt;strong&gt;生活&lt;/strong&gt;で定義する考え方。生活必需財の供給を経済政策の中心に置く&lt;a href=&quot;https://takaumada.substack.com/p/foundational-economy&quot;&gt;ファウンデーショナル・エコノミー（生活基盤経済）&lt;/a&gt;、それを実際に払える価格で使えるかを問う&lt;a href=&quot;https://takaumada.substack.com/p/affordability-agenda&quot;&gt;アフォーダビリティ・アジェンダ&lt;/a&gt;、生活費や所得とともに、ケアや地域活動に使える時間を扱う&lt;a href=&quot;https://takaumada.substack.com/p/good-life-agenda&quot;&gt;グッドライフ・アジェンダ&lt;/a&gt;、保障を具体化する手段としての公的選択肢（パブリック・オプション）。基幹的な生活基盤を共同で保障する考え方です。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;「私たち」を&lt;strong&gt;雇用&lt;/strong&gt;で定義する考え方。「良い仕事」を中心に置く&lt;a href=&quot;https://takaumada.substack.com/p/productivism&quot;&gt;プロダクティビズム&lt;/a&gt;、税や給付による事後の再分配に加えて、賃金や資産所有、労働者の交渉力を左右する制度に働きかける&lt;a href=&quot;https://takaumada.substack.com/p/predistribution&quot;&gt;事前分配&lt;/a&gt;などが挙げられます。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;「私たち」を&lt;strong&gt;産業&lt;/strong&gt;で定義する考え方。産業政策を供給網の強靭化や経済安全保障と結ぶ&lt;a href=&quot;https://takaumada.substack.com/p/new-washington-london-consensus&quot;&gt;新しいワシントン・コンセンサス&lt;/a&gt;、&lt;a href=&quot;https://takaumada.substack.com/p/reindustrialization&quot;&gt;再工業化&lt;/a&gt;、&lt;a href=&quot;https://takaumada.substack.com/p/place-based-industrial-policy&quot;&gt;地域を基盤にした産業政策&lt;/a&gt;などです。&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;「私たち」を&lt;strong&gt;統治&lt;/strong&gt;で定義する考え方。供給制約を取り除く&lt;a href=&quot;https://takaumada.substack.com/p/abundance-2026&quot;&gt;アバンダンス&lt;/a&gt;、政策目標を成果に変える&lt;a href=&quot;https://takaumada.substack.com/p/state-capacity&quot;&gt;ステートキャパシティ（国家能力・国家実装力）&lt;/a&gt;、その実践としての&lt;a href=&quot;https://takaumada.substack.com/p/permitting-reform&quot;&gt;許認可改革&lt;/a&gt;。必要なものが負担できる費用で届くかどうかを、政治の評価基準に据えています。また公共が負ったリスクに対して成功時の利益を還元する&lt;a href=&quot;https://takaumada.substack.com/p/public-upside-sharing&quot;&gt;Public Upside Sharing（公共アップサイド共有）&lt;/a&gt;や、政策が既得権益層に取り込まれる構造を問う&lt;a href=&quot;https://takaumada.substack.com/p/captured-economy&quot;&gt;Captured Economy&lt;/a&gt;が、関連する議論です&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;「私たち」を&lt;strong&gt;帰属意識&lt;/strong&gt;で定義する考え方。国民的な帰属意識を平等や包摂、公共投資と接続する&lt;a href=&quot;https://takaumada.substack.com/p/progressive-patriotism&quot;&gt;進歩的愛国主義&lt;/a&gt;。家族や共同体、労働の尊厳を重視する&lt;a href=&quot;https://takaumada.substack.com/p/common-good-conservatism&quot;&gt;共通善保守主義&lt;/a&gt;も比較対象になりますが、個人の異なる生き方をどこまで認めるかで両者は分かれます。&lt;/li&gt;
&lt;/ul&gt;
&lt;p&gt;どの整理にも弱点はあります。生活で集団を作ろうとすると圏外の人や国の扱いが曖昧になり、帰属意識で作ろうとすればそこに入らない人たちを排除してしまいます。ただ、これらの候補は相互に排他的ではなく、実際の「私たち」は複数の方法を重ねても成り立つはずですし、重ねることで互いの死角を補うこともできます。その上で、どういった地図と規範と進路を選ぶか、ということが「思想を選ぶ」という営みであり、選ばれた思想に応じて適切な事業は異なってくるでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;2045年は、日本にとって戦後100年の節目にあたります。私たちはいま、戦後第4の四半世紀、すなわち次の時代の引き受け手となる主体のあり方を形づくる時期に入っていると考えています。そして同時に、何かしらの集団や共同体を作らなければ、現在の問いにも答えられない状況でもあります。そんな中で思想を考えるというのはおそらく、どういった「私たち」を選び、その中でどのような在り方を選ぶか、ということでもあり、それが私たちに課せられている問いではないか、と考えています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/japan-postwar-25-years/20260915003949.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded><dc:creator>馬田 隆明</dc:creator><category>思想と資本</category></item><item><title>思想と資本 5｜日本の未来を誰が構想するのか</title><link>https://takaumada.com/blog/capital-and-thought-5/</link><guid isPermaLink="true">https://takaumada.com/blog/capital-and-thought-5/</guid><description>1973年3月、小松左京の『日本沈没』が刊行されました。日本列島が地殻変動で海に沈み、人々が国土を離れなければならなくなる未来を描いた小説です。その年のうちに上下巻合わせて380万部以上が売れ、日本という国の先行きと在り方が、小説を通じて広…</description><pubDate>Tue, 08 Sep 2026 03:26:22 GMT</pubDate><content:encoded>&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-5/20260908110849.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;1973年3月、小松左京の『&lt;a href=&quot;https://sakyokomatsu.jp/5216/&quot;&gt;日本沈没&lt;/a&gt;』が刊行されました。日本列島が地殻変動で海に沈み、人々が国土を離れなければならなくなる未来を描いた小説です。その年のうちに上下巻合わせて380万部以上が売れ、日本という国の先行きと在り方が、小説を通じて広く読まれていたことがうかがえます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;小松左京は、&lt;a href=&quot;https://takaumada.com/blog/capital-and-thought-1/&quot;&gt;第1回&lt;/a&gt;で取り上げた大阪万博の理念づくりにも参加していた人物です。そして『日本沈没』は万博の3年後に刊行されました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここで注目したいのは、この頃は未来を世に問うことができていた、ということです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし1990年代以降、日本国内で社会の未来を語ってきた担い手の役割が弱まるとともに、書かれた構想を議論し、投資や政策につなぐ経路も細ってきたと考えています。一方で、シリコンバレーのスタートアップ関係者たちが、その莫大な資本力とともに、新たな思想の語り手として存在感を増してきました。いわば、国内で対案を育てる力が弱まったところへ、資本を伴う海外の思想が入ってきている、という構造です。これは&lt;a href=&quot;https://takaumada.com/blog/tags/thought-and-capital/&quot;&gt;過去の回&lt;/a&gt;や&lt;a href=&quot;https://takaumada.com/blog/technological-republic-acceptance/&quot;&gt;別の記事&lt;/a&gt;でも考えてきました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本稿は、連載「思想と資本」の第5回です。これまでの記事では、未来の思想が投資や契約、政策といった「約束」へ変わる仕組みをたどってきました。今回は1990年代以降の日本を振り返り、社会の長期的な未来を語る活動と、それを受け止める仕組みの変化を考えます。その上で、今求められている担い手について考えます。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;社会の構想を語りにくくなった既存の語り手たち&quot;&gt;社会の構想を語りにくくなった既存の語り手たち&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;冷戦終結後の1990年代以降、官僚や経営者、知識人が引き受ける問いや課題が大きく変わっていきました。そうした背景から、日本の社会において、社会の将来像を語ることも徐々に少なくなり、さらにそれらの経路が弱まってきたように思います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-5/20260908120236.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それぞれをそれぞれの角度から見ていきます。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id=&quot;1-官-役割を縮小していった&quot;&gt;(1) 官: 役割を縮小していった&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;これまでの連載で見てきたように、日本においては、主に未来の構想を示すのは官が行っていました。しかしその役割は、ソビエトの失敗によって冷戦が終結して以降、社会主義的な政策の不合理さに合意がなされ、&lt;a href=&quot;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E3%81%95%E3%81%AA%E6%94%BF%E5%BA%9C&quot;&gt;小さな政府&lt;/a&gt;への志向が世界的に強まると共に、力を民間企業や市民へと移すようになってきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;また同時期の日本では、1990年代のバブル崩壊後の不況による行政への信頼の低下や、官僚の汚職や不祥事、天下りの仕組みが明るみに出ることで権力を失いつつありました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;構想という観点での日本における官の役割の変化は、1999年の&lt;a href=&quot;https://www5.cao.go.jp/99/e/19990705e-keishin-pamph.html&quot;&gt;「経済社会のあるべき姿と経済新生の政策方針」&lt;/a&gt;にも表れています。この文書は、政府主導から独立した個人を基盤とする自由経済への転換を示すため、あえて「計画」という名称を使わなかったと説明しています。政府が進路を示すことと、個人や企業の選択を尊重することの関係を、政府自身が問い直していた時期だったことが垣間見れます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さらに2001年の中央省庁改革では、政府の経済運営の仕組みも変わります。元内閣府審議官の前川守による&lt;a href=&quot;https://www.esri.cao.go.jp/jp/esri/esr/esr_report/esr_036/esr_036_e.pdf&quot;&gt;経済計画についての振り返り&lt;/a&gt;では、市場と民間の役割が強まり、従来型の経済計画は役割を終えたという認識が高まったと整理されています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;官が示す構想の範囲や実効性が限られてきたのがこの頃でした。であれば他の担い手、たとえば民間企業や市民が自ら構想を描き、その実現を担うようになるはずでした。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id=&quot;2-経済界-経営の立て直しを優先していた&quot;&gt;(2) 経済界: 経営の立て直しを優先していた&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;しかしその担い手となる候補だった民間企業や銀行は、同時期にバブル崩壊後後始末に追われることになります。不良債権の処理に10年以上を費やしたとも言われており、官とともに未来の構想とその実現を担う候補だった民間が、過去の投資の後始末に追われていたということです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;日本において主な資本の担い手であった銀行には、企業の長期的な事業構想を理解し、資金を出して有事に支える役割がありました。しかしその銀行も、こうした危機の当事者になったことが、中長期的な構想を練ることに加え、それを長期の資金で支えることも難しくしたのではないかと思います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;また同時期にはグローバリゼーションが進んだことも、民間企業が日本の思想や構想から離れる一員でもあったでしょう。自社の成長のために海外の市場を重視し、売上の多くが海外からになると、民間企業が日本社会の構想を行う必要性は相対的に薄れていきます。国の成長と企業の成長がアラインしづらくなると、企業は国にコミットしづらくなる、ということです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こうした背景から、経営の立て直しや競争力の強化が長く課題になるなかで、企業を成長させた先にどのような日本の社会を作るかという問いは、経済界にとっても担いづらかった構造がありました。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id=&quot;3-論壇-土台となる出版市場が縮小した&quot;&gt;(3) 論壇: 土台となる出版市場が縮小した&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;戦後、官や財界とは異なる立場から、社会の望ましい姿を論じ、市民に知らせてきたのが、知識人や批評の書き手たちでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかしその活躍を支える出版も、1990年代以降に厳しい環境に置かれます。紙の出版市場は&lt;a href=&quot;https://www.nippan.co.jp/business/innovation/&quot;&gt;1996年をピークに縮小&lt;/a&gt;し、雑誌の部数も徐々に減っていきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;特に総合誌の編集部が担っていたのは、分野の違う議論を同じ読者に届ける仕事でした。経済だけではなく、政治や文化、生活の側から読み直せるようにする場がありました。そのような雑誌が減れば、個々の発信が続いても、異なる立場から社会像を比べる機会は減ることになります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一方で同時期、社会で大きな流れになってきたのが、「自己責任」といった言葉を代表とする、個人への責任の委託です。集団から離れ、個人として生きていくことが重視されるようになると、論壇の言葉も徐々に個人へと向いていくことになり、「自己啓発」などが盛んになります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、個人の悩みや生き方を扱うことは、社会について考える入り口になります。ただ、読者が自分の暮らしをよりよくするための経路として、集団としての社会を良くする経路と、自分とその周囲だけがサバイバルすることへの経路があるとき、この頃の日本は多くの場合、後者の言葉が多くなっていったように思います。そうすると、次第に意識から「社会」が相対的に薄れていくことにもなり、その結果、論壇の言葉も個人向けへと最適化されていくことになります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして資本が大きな存在感を持ち始める情勢の中、知識人や批評家の構想が投資や政策につながらなければ、市民は論壇での思想に実効性を感じられなくなり、その思想も使われなくなっていきます。社会の将来像を描く営みの衰えに加えて、この循環の弱まりもこの時期に重なっていたのではないかと考えています。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;未来を語る役割を引き受けたスタートアップ&quot;&gt;未来を語る役割を引き受けたスタートアップ&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;そうしたなかで、2010年代以降、未来を描くことを仕事にする人たち、つまりスタートアップの起業家と、その事業に資金を出す投資家が目立つようになってきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その語りは、「最新の技術」を使って、いまは実現していない暮らしや産業といった未来の構想を語り、その物語によって資金を集めていきます。そして実際に、その資金によって製品を作っていくことで、未来の構想と、いま始められる仕事がつながって見せることができました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-5/20260908120249.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;たとえば、イーロン・マスクが2006年に公表したテスラの&lt;a href=&quot;https://www.tesla.com/ja_jp/secret-master-plan&quot;&gt;マスタープラン&lt;/a&gt;は、高価格のスポーツカーから始め、その資金でより手頃な車を作るという事業の道筋を示していました。その先には、化石燃料に依存する経済から、太陽光による電力を使う経済への移行が書かれています。ここでは自動車を何台売るかという計画に加えて、社会のエネルギーの在り方をどう変えるかという構想も含まれています。買う人にとっては、車の購入が望ましい未来への参加にもなり、働く人にとっては、製品の開発が社会を変える仕事にも見えてくるといった作用もあります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして構想を語る本人が実行にも責任を持って進めることは、その言葉に具体性と説得力を与えます。完成した製品や使えるサービスがあれば、実現可能性の一部を確かめられますし、リスクを背負って実行をしていることでその本気度を示せます。こうしたリスクテイクは、その取り組みに言論とは異なる説得力を持たせることにもなったでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そしてその試みが成功すれば、思想は資本へと繋がります。そして資本を得ると、その思想を実現するための推進力を得られるようになり、その循環が回り始めます。そうすると、お金というものさしが優位な社会においては、資本を有した思想が正解のようにも見えてきて、さらに資本が集まってくる、そんな思想と資本の関係が成立するようになります。実際、GoogleやFacebookといった大きな成功例が出てきたことが、そのサイクルを大きくしていきました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さらに政府は、そうした取り組みを次の経済成長の糧にしようと注目し始めるようになり、次第に支援も始めるようになります。実際、日本でも2010年代中盤から政府がその支援を強めるようになりました。さらにその波に乗って、大企業などもオープンイノベーションなどを掲げて、スタートアップとの連携を進めるようになります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここで、従来の語り手と新しい語り手の関係の変化を見ることができます。&lt;strong&gt;かつて未来の構想を描いていた官や大企業が、起業家や投資家が示す未来の構想の実現を支える側になっていた&lt;/strong&gt;、という変化です。未来を構想し実現するうえで、スタートアップへの期待を強めていった、とも言えます。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;スタートアップは未来の構築に関わる機会も提供できた&quot;&gt;スタートアップは未来の構築に関わる機会も提供できた&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;併せて個人も動きます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;2010年代中盤から、スタートアップとして起業することや、スタートアップに転職することを一定数の人たちが考え始めたのは、そこに未来を見たからではないでしょうか。さらにそこに対する経済的リターンも示すこともできました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;また起業までいかずとも、さきほどテスラの車を買うことが未来に参加することであり、そこで働くこともまた参加の一形態だと書きましたが、まさにこうした個人として未来に関わる機会を提供できたのがスタートアップでした。スタートアップの製品を使うこと自体ががかっこいい、そんな雰囲気です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;つまりスタートアップは、望ましい未来を語るだけでなく、そこに個人として参加する様々な方法も提供していました。 官や経済界、個人といった人たちが、スタートアップに未来を託すようになる理由の一つも、そうした関係構築の回路が存在していたことにもあると考えています。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;シリコンバレーとの経路の確立と思想の流入&quot;&gt;シリコンバレーとの経路の確立と思想の流入&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;日本のスタートアップ自身が未来の構想を学ぶ経路の一つがシリコンバレーでした。新しい事業をどう始め、どのように資金を集め、成長させるかを学ぶために、その発信に注目し、ときには神託のように扱われ、「シリコンバレー流」といった言葉や方法論が輸入されるようになり、それは今も続いています。『&lt;a href=&quot;https://bookplus.nikkei.com/atcl/catalog/26/05/21/02621/&quot;&gt;リーン・スタートアップ&lt;/a&gt;』や『&lt;a href=&quot;https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000816582014.html&quot;&gt;ゼロ・トゥ・ワン&lt;/a&gt;』がそれらの代表例です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうした経路を通して、現在、方法論だけではなく、資本と思想がセットになって入ってきていること、そしてその思想の一部が、そのまま受け取れるとリスクになりうることは&lt;a href=&quot;https://takaumada.com/blog/technological-republic-acceptance/&quot;&gt;別の記事&lt;/a&gt;でも書いたとおりです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただ、国内で対案となる未来の思想や構想が十分に育っていないと、その事業や思想を一緒に、かつ無批判に輸入してしまうことになりかねません。そして現状を考えると、海外から来る構想に判断を委ねやすくなっている状態でもあると思っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;であれば今、そうした海外の思想とは異なる、オルタナティブとなる思想を書く人と、それを実弾として有効化するための経路を強化していく両方が求められていると考えています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-5/20260908120405.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;新しい思想とその語り手思想のスタートアップ&quot;&gt;新しい思想とその語り手：思想のスタートアップ&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;では誰がその思想を書くべきなのでしょうか。そのためにも今一度歴史を振り返ります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここまでの連載で、第1回と第2回では思想と資本がどう日本で離れていったのか、第3回でアメリカで思想と資本がどう融合していったのか、第4回で日本のスタートアップで思想と資本がなぜ交わらなかったのかを見てきました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして明治6年に明六社が立ち上がり、1874年に『&lt;a href=&quot;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%85%AD%E9%9B%91%E8%AA%8C&quot;&gt;明六雑誌&lt;/a&gt;』が創刊されたことは第1回で触れました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここで注目したいのは、当時、彼らはそうした思想を誰かに依頼されて書いていたわけではありませんし、政府の諮問機関でもなければ、国民の代表でもなかったということです。自分たちで問いを立てた、小さな結社から始まりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;同様に第1回で見た大阪万博の起点は、1963年に梅棹忠夫らが立ち上げた私的研究会でした。研究会の構想は7年後、公的な予算と企業の出展判断を経て、実際の建築群になりました。&lt;a href=&quot;https://takaumada.com/blog/capital-and-thought-4/&quot;&gt;第4回&lt;/a&gt;で取り上げた1971年の『ベンチャー・ビジネス』も学者3人が書いた一冊の本です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その誰もが、誰からも頼まれないまま思想を書き始めて、それを世に問い、検証され、そして良いものが残って広がっていきました。それはスタートアップと同じようにです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;であればまさに今、新たな思想を生み、それを育てる循環を作るために、「&lt;a href=&quot;https://takaumada.com/blog/rfs-for-aging-society/#6-%E6%80%9D%E6%83%B3%E3%81%AE%E9%AB%98%E9%BD%A2%E5%8C%96&quot;&gt;思想のスタートアップ&lt;/a&gt;」が求められているのではないでしょうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それはスタートアップが思想を語るのではなく、誰かが思想（認識、規範、行動方針など）を改めてスタートアップ的なプロジェクトとして書き始めることです。それは資本がなくてもできるはずですし、世界秩序が大きく変わっていく中だからこそ、再び求められ始めているように感じています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;実際、アメリカを見ていると、資本市場とは異なる動きをする財団等からシンクタンクにお金が入り、新しい思想が構築されつつあります（たとえば&lt;a href=&quot;https://takaumada.com/blog/why-business-thought/&quot;&gt;こちらの記事&lt;/a&gt;で紹介したものなど）。そしてそれらの思想がまさに、米国内、そして世界の中で、次の秩序構築に向けて競争し合っている状況です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-5/20260908120551.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;誰かが描いた思想が世に普及しなくても、そうした取り組みがいくつもあり、書かれた構想が議論や実行の場に届けば、シリコンバレーから来た思想も、唯一の進路ではなく、比べて修正できる構想の一つになります。オルタナティブを持つ意味は、選択ができることと、比較して議論ができることにあります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;逆に今、自分たちの思想や構想を育てないという選択も、決して中立とは言えないと考えています。それがなければ他者の思想やそのものさしに判断を委ねやすくなります。あるいは、共通の尺度として使いやすい「お金」ばかりが重視されることになるでしょう。それではおそらく日本は弱い立場に置かれていきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-5/20260908120441.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;だからこそ思想を書くことや構想を描くことに、もっと多くの人が挑戦していくことや、そうした人たちをもっと応援していくようなことも重要だろうと思っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;日本でも、そうした思想を書き、その思想を実現するための構想を作る人たちに、もっと多くの支援が必要だと考えています。書かれた構想に営利・非営利両方の資本をつけることに加えて、実行の結果を議論し、構想の書き直しにつなげるところまで支える必要があるのではないでしょうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうした仕組みを構築していくことにこそ、現状の思想競争の中で日本が存在感を発揮し、次の世界秩序の構築への貢献になっていくのでは、と思っています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;米国では、かつての明治時代のように、思想と資本と政治が一体となりつつあります。政府が起業家や投資家が示す未来の構想の実現を支える側にとどまらず、むしろ起業家や投資家が政府を飲み込み、方針を示すぐらいの影響力を持ち始めています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その富と権力の独占の形が決して良いと思わないのであれば、そうではない思想と構想を描く人を増やし、そしてその思想と資本と政治と市民などの様々なステークホルダーのつながりを強めていくことや、別の形を模索することでしかある意味対抗はできません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-5/20260908120615.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;米国に比べると小さな試みかもしれません。しかし、明六社の明六雑誌はたった2年で終わったスタートアップのようなものだったにもかかわらず、その雑誌の残した言葉や影響は大きく、今も残っています。そうしたことを考えれば、構想を語る役割は、従来の語り手も、そしてこれからの個人も、もう一度引き受けられるはずです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;日本や世界の未来の思想を複数の人たちが作り、それをつないでいくこと。そうした取り組みがまさに今求められているように思います。&lt;/p&gt;</content:encoded><dc:creator>馬田 隆明</dc:creator><category>思想と資本</category></item><item><title>思想と資本 4｜日本のスタートアップで思想と資本はいかにすれ違ったか</title><link>https://takaumada.com/blog/capital-and-thought-4/</link><guid isPermaLink="true">https://takaumada.com/blog/capital-and-thought-4/</guid><description>1971年、清成忠男、中村秀一郎、平尾光司らが『ベンチャー・ビジネス―頭脳を売る小さな大企業』を刊行しました。アメリカで台頭していたVenture Capitalにヒントを得て、従来の中小企業とは異なる企業類型として、研究開発や設計の能力で…</description><pubDate>Sun, 30 Aug 2026 13:43:12 GMT</pubDate><content:encoded>&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-4/20260830223959.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;1971年、清成忠男、中村秀一郎、平尾光司らが『ベンチャー・ビジネス―頭脳を売る小さな大企業』を刊行しました。アメリカで台頭していたVenture Capitalにヒントを得て、従来の中小企業とは異なる企業類型として、研究開発や設計の能力で勝負する知識集約型の新しい企業に名前を与えた本です。和製英語の「ベンチャー企業」はここから広がりました。その2年後の1973年には日本合同ファイナンス、現在のJAFCOが設立されるなど、1970年代前半の日本では「&lt;a href=&quot;https://www.dir.co.jp/report/research/capital-mkt/securities/20130212_006801.pdf&quot;&gt;第1次ベンチャーブーム&lt;/a&gt;」が起こります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;日本がスタートアップの概念を知り、リスクマネーの制度を作り始めたのは、万博が開かれた1970年代の前半のことでした。これは第3回で見た米国のVCが制度を整え始めたのとほぼ同じ時期です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかしその後、シリコンバレーは大差をつけて先行することになります。日本にも起業家がいて、VCができはじめ、思想を書く人もいたのに、です。では日本で思想と資本はどのようにすれ違っていったのでしょうか。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この記事は、シリーズ「&lt;a href=&quot;https://takaumada.com/blog/tags/thought-and-capital/&quot;&gt;思想と資本&lt;/a&gt;」の第4回です。&lt;a href=&quot;https://takaumada.com/blog/capital-and-thought-3/&quot;&gt;第3回&lt;/a&gt;では、1970年前後からの米国を振り返り、近年になって思想と資本の両方を担うプレイヤーが出てくる過程を見ました。今回は同じ時期の日本を、主にスタートアップという観点から、1970年代から2010年代まで見ていきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;なお、再び言葉の定義をしておきます。これまでの回と同じく、思想とは、社会の歴史・現状・未来と仕組みをどう捉えるかという「地図」、何を優先し何を許さないかの評価基準である「ものさし」、社会をどう変えるかという方向と行動計画である「進路」を一つにした思考の枠組みであり、構想はその思想を特定の場所で実行できる案にしたものとします。資本は、出資や公的予算のように将来の資源配分を拘束する資金的な約束を指し、原稿料や受託費のような過去の仕事への支払いは含めません。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;1970年代のベンチャービジネス論と第1次ブーム&quot;&gt;1970年代のベンチャービジネス論と第1次ブーム&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;「ベンチャービジネス」という概念は、新しい企業類型を発見し、その社会的な意味を説明する試みだったと言えます。そして概念は、実際に資本を動かしています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;https://k-rain.repo.nii.ac.jp/record/2001587/files/kokugakuinkeizaigaku_073_02_002.pdf&quot;&gt;京都経済同友会からは京都エンタープライズ・デベロップメント (KED) のような投資会社が生まれ&lt;/a&gt;、日本電産の設立翌年（&lt;a href=&quot;https://www.nidec.com/jp/brand/company/nidec_history/chapter1/&quot;&gt;1974年&lt;/a&gt;）に同社へ出資しました。&lt;a href=&quot;https://www.jafco.co.jp/history/&quot;&gt;先ほど見た日本合同ファイナンス (現: JAFCO) も、野村證券、日本生命、三和銀行などの共同出資で設立&lt;/a&gt;されています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;新しい企業類型に「ベンチャー企業」という名前をつけて、起業家を正統化し、政策と金融へ接続する営みが、概念の提唱とほぼ同時に形になっていきました。ある意味で、思想が資本へ届き、資本が動いたということです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;米国との大きな違いがあるとすれば、生まれたVCの多くが銀行や証券会社の系列だったことです。当時のJAFCO自身も投資だけでなく融資を行い、既存の金融機関との関係の中で成長しています。資本が思想を語る必要に迫られるのは、出資者や起業家を思想で奪い合うときです。資金も投資先も系列と取引関係の中から来る日本のVCに、その必要はありませんでした。投資判断もデットファイナンス中心の企業評価の言葉で行われ、エクイティの持つ、将来の物語を株式価値へ変換する機能の出番は限られていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただ、これはキャッチアップ型成長という当時の目標に照らせば、合理的な選択でもあったように思います。欧米の最先端ビジネスを参考に、日本市場という巨大なマザーマーケットを活用しながら、相対的に安価な労働力とプロセス改善の技術を使って、後発からまくっていくのが当時の日本企業の得意なやり方でした。独立したVCがエクイティで創業初期の不確実性に投資するビジネスは求められておらず、既存企業には銀行融資や政策金融、系列内の株式保有といった、エクイティではない資金調達経路が機能していました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;「ベンチャービジネス」という概念は、エクイティ型の資本へ一度接続しようとしましたが、デットファイナンスの強い日本の環境や、オイルショック（1973年）の混乱を経て、退潮していくことになります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-4/20260830223749.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;1980年代の第2次ベンチャーブーム&quot;&gt;1980年代の第2次ベンチャーブーム&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;再び盛り上がるのは、1980年代に入ってからです。&lt;a href=&quot;https://www.meti.go.jp/meti_lib/report/2022FY/000331.pdf&quot;&gt;前半から半ばにかけて第2次ベンチャーブームが起き、HIS、ソフトバンク、CCCなどの流通・サービス系の企業が設立&lt;/a&gt;されました。1970年代のベンチャービジネス論が主に研究開発型の企業を捉えようとしたのに対し、この時期の起業家は旅行、パソコンソフトの流通、レンタルという消費者に近い市場から始まっています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;資本の仕組みも前進しました。&lt;a href=&quot;https://www.jafco.co.jp/history/&quot;&gt;JAFCOは1982年に日本初のベンチャーファンドを設立&lt;/a&gt;しました。&lt;a href=&quot;https://www.jpx.co.jp/corporate/about-jpx/history/02-04.html&quot;&gt;1983年には、のちのJASDAQにつながる新しい株式店頭市場が発足&lt;/a&gt;しています。1971年にNASDAQを開設していた米国から少し遅れて、日本でも投資会社が自ら投融資する形に加えて、複数の出資者から集めた資金を未上場企業へ配り、上場で回収する仕組みが始まりつつありました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;同じ時期、&lt;a href=&quot;https://takaumada.com/blog/capital-and-thought-1/&quot;&gt;第1回&lt;/a&gt;で見たように、官の側では社会と産業の将来像も書かれていました。&lt;a href=&quot;https://museum.ipsj.or.jp/computer/other/0002.html&quot;&gt;1982年に始まった第五世代コンピュータプロジェクト&lt;/a&gt;には、通産省主導の国家プロジェクトとして11年間で約540億円が投じられました。堺屋太一も&lt;a href=&quot;https://cir.nii.ac.jp/crid/1970304959887295109&quot;&gt;1985年の『知価革命』&lt;/a&gt;で、物質の量より知識や新しさが評価される社会を描いています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし、社会構想、起業、VCの拡大という三つの動きは、別々の経路を進みました。情報社会の構想は主に官庁と国家プロジェクトへ、起業家の構想は自社の事業へ、VCの資金は金融系列の審査と取引関係の中へ流れています。三つが投資テーゼ、すなわち思想を投資判断の仮説へ翻訳したもののもとで交わり、複数の資本が構想を検証して書き換えるという形にはなりませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この分離を残したまま、日本はバブルの崩壊へ向かいます。1989年5月から翌1990年8月にかけて利上げが5回実施される中で、株価指数は1989年末に最高値をつけ、1990年代に入ると急落していきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-4/20260830223945.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;1990年代の制度整備と事業機会という共通語&quot;&gt;1990年代の制度整備と事業機会という共通語&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;バブルの後始末と並行して、日本は再び起業とリスクマネーの制度を整え始めます。1995年には中小企業創造活動促進法が作られ、1998年には投資事業有限責任組合法とTLO法が整いました。1999年には中小企業基本法の改正と東証マザーズの開設が続き、2001年には大学発ベンチャー1000社計画が始まりました。中小企業を保護の対象から革新と創業の担い手へ位置づけ直し、投資組合の法形式を整え、大学の技術移転を促し、イグジット先の市場を作る一連の政策です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その頃、米国のドットコムブームを受けて、ネットエイジ代表の西川潔が「&lt;a href=&quot;https://ascii.jp/elem/000/000/306/306596/&quot;&gt;ビットバレー構想&lt;/a&gt;」を掲げ、渋谷を中心にネット企業の集積が生まれ、新しい起業の時代への期待が広がりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ビットバレーは1つの思想のようにも思えますが、共有された言葉の中心は、インターネットによってどの市場が開かれるかという事業機会、つまり市場の地図だったように見えます。「ユーザーの幸せを最優先する」「世界全体が幸せになることを視野に入れる」といった、金銭以外の規範も語られていましたが、いずれも抽象的な言葉で、そこに規範的な社会像を見ることは難しいものでした。しかしこれは、ドットコム・バブルに沸いていた同時期のシリコンバレーも同様だったでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その後、2000年3月のNASDAQ市場の急落を皮切りに、米国のドットコムバブルは弾け、日本のビットバレーもその勢いを失うことになります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;米国ではその後、&lt;a href=&quot;https://takaumada.com/blog/capital-and-thought-3/&quot;&gt;第3回&lt;/a&gt;で見たように、Google等のIPOにより再び活気づき、思想を投資テーゼへ翻訳するVCも育っていきます。その頃の日本では、別の動きが見えつつありました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-4/20260830223835.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;2000年代の思想と資本のすれ違い&quot;&gt;2000年代の思想と資本のすれ違い&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;日本では資本の側の動きが鈍くなったものの、2000年代には、批評の側から情報社会の設計へ接近する動きが生まれます。東浩紀は2004年から国際大学GLOCOMで、&lt;a href=&quot;https://www.glocom.ac.jp/ised/about.html&quot;&gt;ised（情報社会の倫理と設計についての学際的研究）&lt;/a&gt;を主宰しました。後にスマートニュースを共同創業する&lt;a href=&quot;https://about.smartnews.com/ja/about/leadership.html&quot;&gt;鈴木健&lt;/a&gt;をはじめ、研究、技術、政策、批評にまたがる&lt;a href=&quot;https://www.glocom.ac.jp/ised/allprofile.html&quot;&gt;参加者&lt;/a&gt;が集まり、批評の言葉で情報社会の設計を論じました。ネットの時代の日本では先駆的な場でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;研究会の成果は主にWebの連載や書籍として残りました。ただ、議論を読む人と、議論に沿って複数の事業へ資本を配る人は別のまま進みました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;市場の側でも、接続は起きかけたことがあります。2006年には梅田望夫の『&lt;a href=&quot;https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480062857/&quot;&gt;ウェブ進化論&lt;/a&gt;』が35万部を超えて読まれ、この本をきっかけにウェブの世界に入ったと語る起業家も現れました。未来の社会像を唱える思想が、人の職業選択を変え、起業へ向かわせる経路は開き始めていました（もっとも梅田自身は2009年に「&lt;a href=&quot;https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0906/01/news045.html&quot;&gt;日本のWebは残念&lt;/a&gt;」と述べ、この領域から距離を置きました）。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一方で、物語が資本を直接動かす経路も、荒削りな形で開きかけていました。物語で時価総額を押し上げ、自社株で買収を重ねるライブドアの経営は、その1つの象徴のように見えます。しかし2006年、ライブドアと村上ファンドの両事件が社会問題になり、物語と資本の接続そのものが危険視されるようになります。系列の関係にも官の予算にも頼らず、市場で物語に値段がつく経路が見えかけたところで、その経路は事件の記憶とともに閉じていきました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;isedは制度設計の議論を残し、『ウェブ進化論』は読者の選択を変えました。しかし、複数の資本が利用する共通の市場構想は、どちらからも生まれませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-4/20260830223851.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;2010年代に現れた思想と事業を担う人たち&quot;&gt;2010年代に現れた思想と事業を担う人たち&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;そして2010年代には、思想を書くことと事業を行うことを一人の活動の中で担う人が目立つようになります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;東浩紀は2010年にゲンロンを創業し、思想を出版・イベント・教育の事業として運営しながら、『&lt;a href=&quot;https://www.kodansha.co.jp/book/products/0000187158&quot;&gt;一般意志2.0&lt;/a&gt;』（2011年）から『&lt;a href=&quot;https://shop.genron.co.jp/products/22114&quot;&gt;訂正可能性の哲学&lt;/a&gt;』（2023年）、『&lt;a href=&quot;https://shop.genron.co.jp/products/22119&quot;&gt;平和と愚かさ&lt;/a&gt;』（2025年）まで社会像を書き続けています。isedに参加していた鈴木健は、『&lt;a href=&quot;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AA%E3%82%81%E3%82%89%E3%81%8B%E3%81%AA%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%95%B5&quot;&gt;なめらかな社会とその敵&lt;/a&gt;』（2013年）で貨幣、投票、統治の仕組みを構想しながら、スマートニュースを共同創業しました。落合陽一も『&lt;a href=&quot;https://www.amazon.co.jp/dp/4905325056&quot;&gt;魔法の世紀&lt;/a&gt;』（2015年）や『&lt;a href=&quot;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%88%E7%AE%97%E6%A9%9F%E8%87%AA%E7%84%B6&quot;&gt;デジタルネイチャー&lt;/a&gt;』（2018年）という世界観とともに、&lt;a href=&quot;https://newcorp.pixiedusttech.com/ja/about-us&quot;&gt;研究と事業&lt;/a&gt;を進めました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここで特徴的だったのは、思想を書く人が自らのメディアと読者の共同体を持つ形と、自ら起業して思想や研究の一部を事業に移す形が、同時に現れたことです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;たとえば東浩紀は、ゲンロンの出版、イベント、ゲンロンカフェに加えて、配信プラットフォームのシラスを運営しています。落合陽一も、オンラインサロンで継続的な読者や参加者の共同体を作りました。購読料や会費は思想を書く仕事を続ける収入になり、書き手が出版社や放送局を通さずに読者へ届く経路にもなっています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;第2回で見た論壇では、評価と対価が評論家個人の名前に集まっていました。配信やオンラインサロンはこの関係をデジタル化することで、書き手と読者のつながりを太く、そして出版社を介さない直接的な形で金銭の授受を行えるようにしました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここでは、書き手と読者のつながりが、その人の考え方（思想）ではなく、その人個人を推す形で現れています。エクイティは思想や未来に対して投資を行います。一方、購読やサロン会費は、著者との関係性に払われるものにとどまります。思想と金銭の流れはつながったものの、それが資本と呼べる形だったかどうかで、日米は大きく違った、と見ることができます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もちろん、鈴木健のスマートニュースや落合陽一のPixie Dust Technologiesといった、思想をビジネスと資本につなげた例も出てはいました。両者では、思想や研究が自社の事業方針へ入り、資本を受けた事業として形になっています。しかし、思想が本人の組織を越え、複数の企業や投資家が使う投資テーゼへ広がった例は限られていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-4/20260830223903.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;2010年代の日本での投資家側の動き&quot;&gt;2010年代の日本での投資家側の動き&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;第3回で見た米国のVCメディアでは、思想を作るための費用を資本が払い、投資テーゼが起業家の発見や人材の採用、複数の企業への投資へつながっていました。出資者と起業家を思想で奪い合う競争の中にいるからです。そこには、ファンドの年限に縛られ、語られる未来が株式の値上がりとして回収できるものへ偏るという問題がありますが、それでも思想はファンドの投資判断へ翻訳され、複数の事業へ配られます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;日本にも、前節で見た鈴木や落合のように、思想と資本を自前で結びつけようとする例はありました。しかしこうした接続は少数にとどまり、一つの組織を越えて複数の企業や投資家の共通語になるほどには広がりませんでした。2010年代には国内VCのメディアも出てきましたが、シリコンバレーで書かれた市場の地図を紹介する記事が目立ちました。自前のテーゼを書かなくても、米国で検証済みの地図を輸入すれば投資はできたからでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こうして整理すると、思想に賭ける人が日本にいなかったわけではない、ということが見えてきます。しかし思想は資本につながったのではなく、思想はその著者個人とのつながりや、個人の組織の中にとどまりました。他の投資家が誰かの思想や構想を仮説として独立にリスクを引き受け、投資判断へ展開していく動きは厚くなりませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この流れの中で例外的に、自らの地図を投資判断へ翻訳し続けた投資家が孫正義です。「情報革命」という一枚の地図のもとで、ソフトバンクの事業と投資を数十年にわたって組み替えてきました。ソフトウェアの流通から通信事業の取得、大規模なファンドを通じた投資まで、対象は変わっても、情報が社会の中心へ移っていくという地図と、先回りして賭ける進路は一貫しています。ビジョン・ファンドは、地図が資本を動かした最大の例と言えるでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その一方で、孫がしばしば語ってきたのが、「豆腐屋が豆腐を1丁、2丁と数えるように、売り上げを1兆、2兆と数えられる企業にする」といった経済的な目標です。新しい規範がそこに含まれているかといえば、むしろ資本主義の規範をそのまま活用しているように見えます。新しいものさしを持ち込まない地図だったからこそ、これほどの規模で長く資本を動かせたのかもしれません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-4/20260830223915.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;少数の接続は個人と組織の内側にとどまった&quot;&gt;少数の接続は個人と組織の内側にとどまった&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ここまで見てきたすれ違いは、思想と資本のそれぞれの立場から言い直せます。資本の側では、海外で書かれた市場の地図を輸入できたので、日本の思想を必要としませんでした。また、系列にも官にも頼らず市場で物語に値段がつく第三の経路は、2006年の事件の記憶とともに閉じたままでした。そして思想の側が2010年代に見つけたのは、資本との接続ではなく、著者個人との関係を換金するサロンなどの経路でした。会費や購読料は思想を語る仕事を持続可能にしたものの、それは本人の外で使える仮説や、社会を変えていくような仮説には広がりませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一方、官の側では、第1回と第2回で見たように、社会の将来像が官庁と国家プロジェクトを通じて政策資金へ翻訳されていました。しかし、徐々に産業政策は鳴りを潜め、官が未来を語ることは少なくなります。官が作成し、2010年代によく読まれたのは『&lt;a href=&quot;https://www.meti.go.jp/shingikai/sankoshin/sokai/pdf/020_02_00.pdf&quot;&gt;不安な個人、立ちすくむ国家～モデル無き時代をどう前向きに生き抜くか～&lt;/a&gt;』という、未来への不安を語るものだったのはある意味で象徴的だったと言えます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ではなぜ日本の資本は思想で競争せずにいられ、なぜ未来を語る仕事は個人を推す形でしか続かなかったのでしょうか。系列や地図の輸入といった資本側の事情はここまでに見ましたが、それだけでは、思想の側までが個人の経路へ向かった理由を説明できません。その答えはおそらく、スタートアップの外側で起きていた社会の変化にあります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこで次回は、1990年代以降、未来の語りが社会から個人の単位へ縮んでいった過程を見ます。その上で、なぜ、一人の個人が物語から資金までを一身に束ねる経路だけが太くなり、日本が地図とものさしを自前で書くのではなく、シリコンバレーへ委ねるようになったのかを考えます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-4/20260830223929.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded><dc:creator>馬田 隆明</dc:creator><category>思想と資本</category></item><item><title>思想と資本 3｜アメリカで思想と資本はいかにして再び結ばれたか</title><link>https://takaumada.com/blog/capital-and-thought-3/</link><guid isPermaLink="true">https://takaumada.com/blog/capital-and-thought-3/</guid><description>日本が万博で沸いた1970年の1年後、1971年に米国ではNASDAQが始まりました。米国スタートアップの出口となる公開市場です。 米国のVCは、1940年代にARDC（American Research and Development C…</description><pubDate>Wed, 26 Aug 2026 15:08:57 GMT</pubDate><content:encoded>&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-3/20260826234036.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;日本が万博で沸いた1970年の1年後、1971年に米国では&lt;a href=&quot;https://ja.wikipedia.org/wiki/NASDAQ&quot;&gt;NASDAQ&lt;/a&gt;が始まりました。米国スタートアップの出口となる公開市場です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;米国のVCは、1940年代に&lt;a href=&quot;https://en.wikipedia.org/wiki/American_Research_%26_Development_Corporation&quot;&gt;ARDC（American Research and Development Corporation）&lt;/a&gt;から始まった試行錯誤を経て、専門的な金融仲介業として形になりつつありました。1979年には、米労働省がERISA法について、個々の投資の慎重性をポートフォリオ全体との関係で判断する規則を定め、年金基金がVCへ出資しやすくなりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その成果は1995年8月に見える形になります。創業から15か月で、まだ利益を出したことのない会社が、米国で株式を公開しました。ブラウザという新しいソフトウェアを作っていたネットスケープです。公開初日、&lt;a href=&quot;https://www.latimes.com/archives/la-xpm-1995-08-10-fi-33590-story.html&quot;&gt;株価は公募価格28ドルの2倍を超える58.25ドルで取引を終え、時価総額は約19億ドルに達しました&lt;/a&gt;。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;市場の投資対象となったのは、インターネットが社会の中心になるという、まだ確定していない未来の物語です。そしてこうした未来にお金がつく動きは、ドットコムバブルによる一時的な停滞はあったものの、その後30年にわたって続いていきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;その後、シリコンバレーを中心にした、「&lt;strong&gt;物語に値段をつけ、資金に変え、実行させ、うまくいくかどうかを市場に判定させる&lt;/strong&gt;」という一連の営みは、思想を資本へ変える仕組みへと育っていきました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本稿は、シリーズ「思想と資本」の第3回です。第1回と第2回では、日本で思想と資本が離れていく過程を、明治から1990年前後まで見てきました。思想を考える人と資金を動かす人の兼務が分業に置き換わり、兼務が果たしていた仕事を引き受ける仕組みが作られなかった、という過程です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;本稿では、米国側の話を見ていきます。米国でも1970年代以降に未来形成の機能が分散しました。そこから株式とスタートアップを介して結び直され、さらに2020年代にかけて、大型で政策依存度の高い一部VCの内部へ高密度に統合されていく過程を見ます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こうした米国の流れを把握しておくことは、現在の日本にも意味を持ちます。&lt;a href=&quot;https://takaumada.com/blog/technological-republic-acceptance/&quot;&gt;以前の記事&lt;/a&gt;で見たとおり、いま日本には、この米国で育った仕組みを経路として、事業の方法や市場の予測だけでなく、国家や統治や自由の意味までを含む思想が入ってきているからです。つまり本稿は、いま日本に思想を運び込んでいる発信元である米国に何が起こってきたのかを、思想と資本という観点から読み直す試みです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;以下でも前回と同じ言葉の定義を使います。思想とは、社会の歴史・現状・未来と仕組みの認識を捉える「地図」、何を優先し何を許さないかの評価基準である「ものさし」、社会をどう変えるかという方向と行動計画である「進路」を一つにした思考の枠組みです。構想は、その思想を特定の場所で実行できる案にしたものです。資本は、出資や公的予算のように将来の資源配分を拘束する資金的な約束を指し、原稿料や受託費のような過去の仕事への支払いは含めません。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;1970年代米国でも未来の語り方が変わった&quot;&gt;1970年代、米国でも未来の語り方が変わった&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;1970年に日本で万博が行われていた頃、米国でも様々な変化が起きていました。とりわけ大きく変わったのが、未来の語られ方です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;米国の未来学は、&lt;a href=&quot;https://www.worldfuture.org/&quot;&gt;世界未来学会&lt;/a&gt;の設立（1966年）や&lt;a href=&quot;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%BC&quot;&gt;アルビン・トフラー&lt;/a&gt;の『未来の衝撃』（1970年）に代表される大衆的な熱狂のピークを、1960年代後半から1970年頃に迎えました。しかし、その後に語り方と担い手の変化が起こります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一つの変化は、国家が大計画を通じて単線的な未来を示す語り方が少なくなっていったことです。アポロ計画の終盤にはNASAの予算削減によって複数のミッションが中止され、宇宙開発という一つの大目標へ資源を集中する時代は終わりに向かいました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;同時期には、別の未来形成の方法が制度化されていきます。米議会は1972年の&lt;a href=&quot;https://www.congress.gov/92/statute/STATUTE-86/STATUTE-86-Pg797.pdf&quot;&gt;技術評価法&lt;/a&gt;でOffice of Technology Assessment（OTA）を設け、技術がもたらす直接・間接の影響を議会が評価する仕組みを作りました。さらに、&lt;a href=&quot;https://www.govinfo.gov/content/pkg/STATUTE-83/pdf/STATUTE-83-Pg852.pdf&quot;&gt;1970年の国家環境政策法の成立&lt;/a&gt;と&lt;a href=&quot;https://www.epa.gov/history/origins-epa&quot;&gt;同年の環境保護庁の設置&lt;/a&gt;、そして自動車の排出ガス削減を義務づけたマスキー法の制定に象徴されるように、将来の被害を予測し、事前に影響を評価して企業を縛る制度も整っていきます。つまり、「未来を縛る」ほうの語り方が増えていきました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これ以外でも、未来を語る方法は残りましたが、様相は少しずつ変わっていきます。企業の領域では、Shellが&lt;a href=&quot;https://www.shell.com/news-and-insights/scenarios/what-are-shell-scenarios.html&quot;&gt;1970年代初頭からシナリオプランニング&lt;/a&gt;という技法を使い始め、1973年のオイルショックを事前に1つのシナリオとして検討していたことから、注目を集めました。ただこの手法は、未来を一つの予測に固定せず、異なる前提から生じる複数の可能性を検討するものです。つまり、従来の楽観的な単線予測や能動的な未来形成から、複数シナリオの評価という受動的な予測へと変わりはじめていたのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-3/20260826234442.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;同時期シンクタンクにアドボカシー型が加わる&quot;&gt;同時期、シンクタンクにアドボカシー型が加わる&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;同じ1970年代、未来を語ってきたもう一つの場であるシンクタンクも変わりつつありました。&lt;a href=&quot;https://www.cambridge.org/core/journals/ps-political-science-and-politics/article/abs/changing-world-of-think-tanks/EF4EC3145FB27E04B70B9877D2F3C60B&quot;&gt;ケント・ウィーバーが示した類型&lt;/a&gt;で言えば、「学生のいない大学型」や「受託研究型」に続いて、明確なイデオロギーと政策実現を前面に出す「アドボカシー型」がこの頃のシンクタンクに出現し始めます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それまでの米国では、ブルッキングス研究所やランド研究所のように、学術的な探究と客観的な政策評価を中心に据えるシンクタンクが主流でした。ランド研究所出身のハーマン・カーンが『&lt;a href=&quot;https://www.amazon.co.jp/dp/B01LTIPGA0?&quot;&gt;紀元2000年&lt;/a&gt;』（1967年）で試みたような、数十年先の未来予測も、こうした組織の仕事の一部でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし1970年代には、ヘリテージ財団（1973年設立）やケイトー研究所（1977年設立）の登場、AEI（アメリカン・エンタープライズ研究所）の刷新によって、政策実現を明示的に目指す組織の存在感が増します。ヘリテージ財団自身が後に説明した運営原則も、&lt;a href=&quot;https://www.heritage.org/political-process/report/ideas-think-tanks-and-governments&quot;&gt;政策判断の前に届く即時性と、鞄に入る短さ&lt;/a&gt;を重視するものでした。シンクタンクの領域で、政策案の可視性と、そして即時性をめぐる競争が強まったのです。ここからシンクタンクでも遠い未来を語るよりも、短期で直接的な提言が増えていきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これは別の形の作用もありました。政権交代のたびに人材をまとめて政府へ送り込むような形態が出現し始めたのです。このリボルビングドアの型は定着し、シンクタンクは政権移行時の「影の内閣」として機能するようになります。これが現在まで続く、米国の政策形成の一つの型です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;1970年代はこのように、未来を語る形が変わってくる年代でした。そして未来形成の機能は、異なる時間軸と形式を持つ複数の組織へ、分散していきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-3/20260826234450.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;未来を語る担い手としてのsfが残った&quot;&gt;未来を語る担い手としてのSFが残った&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;そうした変化の横で未来の語り手として残った場がります。それが&lt;a href=&quot;https://takaumada.com/blog/capital-and-thought-2/&quot;&gt;第2回&lt;/a&gt;の最後にも触れたSFです。SFは制度や事業計画の制約から距離を置き、「あるかもしれない未来の像」を描き続けていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;SFはあくまで虚構の場であり、作品そのものに実現の意思や資金が付随するわけではありません。その代わり、技術が普及した社会の姿や、そこで生じる葛藤を思考実験として先に描くことができます。作品のみならず、SFへの批評、読者の議論を通じて蓄積された未来像や比喩は、起業家や技術者や投資家が未来を語るときに参照できる、広く共有された文化的資産になりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;後年、ピーター・ティールのFounders Fundが掲げたマニフェスト「&lt;a href=&quot;https://foundersfund.com/the-future/&quot;&gt;What Happened to the Future?&lt;/a&gt;」には、「空飛ぶクルマがほしかったのに、手に入れたのは140文字だ」という一節があります。一読すると苛立ちが際立ちますが、その背後にはスタートアップこそが「空飛ぶクルマ」のようなSF的な未来を現実に変える手段だという期待があり、その期待が裏切られたがゆえの苛立ちだったようにも見えます。それぐらい、SF的な発想が起業家や投資家へ影響していたということでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;とはいえ、1970年代前半はベトナム戦争やローマクラブの『成長の限界』、公害問題などの世相を受けて、破滅的な未来を描くSFが多く出版されていた時期でした。それが変わり始めたのが1977年のスターウォーズであり、その後、80年代には先進的かつ退廃的なサイバーパンクへと変わりつつ、SFは未来像を語り続けます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-3/20260826234503.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;同時期の日本でも、第2回の最後に見た小松左京らの作品などによって未来はSFで語られ続けていました。日本ではそのSFが実現されず、米国で実現された理由は、実現の意思と資金を結びつける仕組みが育ったかどうかにあるように思います。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;未来の妄想を事業の構想へと翻訳して実行し、資金を付ける仕組みが米国では徐々に発達していました。それが株式による資金調達です。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;未来に値段をつける仕組み&quot;&gt;未来に値段をつける仕組み&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;&lt;a href=&quot;https://takaumada.com/blog/pendulum-between-culture-and-finance/&quot;&gt;「カルチャーと金融」の振り子について書いた記事&lt;/a&gt;で見たように、株式（エクイティ）での資金調達は返済義務がなく、投資家が事業の残余価値、つまりまだ確定していない大きな上振れを引き受ける金融商品であり、いわば物語（ストーリー）をお金に換える仕組みです。そしてエクイティストーリーはまさに、起業家などが事業の未来を語り、資金を得るために使う言葉です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;上場企業の場合、未来への期待は株価として公開市場に示され、株式を発行する企業は、その期待を現在の資金へ変えられます。未上場の段階で、同じ変換を引き受けるのがVCです。上場企業に期待されるのがある程度確実な未来だとすれば、未上場の企業が賭けるのは、不確実だけれど大きな未来です。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;未来についての思想を構想に変え、実現へ進めるには、主に三つのものが必要です。そこへ至る仮説（構想）を立てること、その構想を実行する主体がいること、そして実現に必要な資金を出す主体がいることです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;VCを中心とするスタートアップの投資では、創業者側が「構想＋実行」の主体を担い、VC側が「資金」を担うという分担を行います。またVCは資金だけでなく、信用、人材、次の投資家への接続を通じて、選んだ構想を増幅します。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;冒頭で見たとおり、米国では1970年代の末に、この仕組みへ年金という大きなお金が流れ込み始めました。まだ確定していない未来に値段をつける仕組みが、大きな資金が賭けられる場所としての機能を持ち始めていたのです。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;sf的な未来像とデジタル産業&quot;&gt;SF的な未来像とデジタル産業&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;この株式という仕組みが、新しい事業の領域で本格的に動き出すのは、デジタルという新しい産業と結びついてからです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;デジタルの中心は、1970年代は半導体、80年代はハードウェアとソフトウェア、そして90年代はインターネットと移っていきます。特に80年代以降は、少人数と少額の資金で始められ、当たれば急速に拡大するという性質を持ち、段階的に賭け金を増やす株式投資の仕組みと相性の良い産業でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-3/20260826234200.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この時期のシリコンバレーでは、SF的な未来像を扱うメディアと、デジタル事業に投資する実践が、同じ産業圏に並んで現れています。&lt;a href=&quot;https://www.wired.com/2013/04/wired0101/&quot;&gt;1993年創刊のWIRED&lt;/a&gt;のようなメディアが登場し、徐々にフィクション、メディア、技術者文化、スタートアップの間で、未来を語る像や言葉が共有されていきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この時代、デジタルの未来について規範を公然と語る役割は、主に作家や活動家、読者に向けたメディアが担っていました。たとえば1996年には、活動家のジョン・ペリー・バーロウが&lt;a href=&quot;https://www.eff.org/cyberspace-independence&quot;&gt;「サイバースペース独立宣言」&lt;/a&gt;を発表し、政府の主権はサイバースペースに及ばないという規範を掲げています。VC側の価値判断は、投資判断や業界団体、個々の投資家の発言を通じて表に出ることはあっても、投資会社ブランドの下に置かれた常設メディアや政策部門から継続的に発信される形は、まだ一般的ではありませんでした。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;vcの機能拡大の時代へ&quot;&gt;VCの機能拡大の時代へ&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;1990年代以降、起業家がSFの中から未来像を取り出して事業の構想へ翻訳し、VCが構想を選んで資金を出す関係が拡大します。株式とVCは、SFを含む様々な源から生まれた未来像を実行へ移し、実現できるかどうかを市場に検証させる仕組みのパーツとして、立ち位置を明確にしていきました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;それが徐々に変わり始めるのは、本来裏方だったVCが相対的に力を持ち始めてからです。GoogleやFacebookといった投資先の大きな成功に加え、リーマンショック以降はプライベートエクイティ領域への資金流入も続き、シリコンバレーの起業家とVCは再び注目され始めます。その後、一時は起業に資金がほとんどいらない状況においては起業家が相対的に優位だった状況から、資本が必要な起業や経営スタイルが増えてくると、再び資本を持つVCの影響力が増していくようになります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ここで生じた変化は、VCがそのファンドとブランドの下で、支援チーム、常設メディア、政策活動、調査などの機能を持ち始め、その規模が拡大したことです。とりわけ大型で政策依存度の高い一部VCは、第2回で挙げた「思想が作られた6つの場」（社会運動、協同組合と労働運動、学問と知識人、出版と論壇、政策を作る永田町と霞が関、シンクタンク）のうち、3つに相当する機能を自分の中へ取り込みつつあります。それが、&lt;/p&gt;
&lt;ol&gt;
&lt;li&gt;メディアの機能&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;シンクタンクの機能&lt;/li&gt;
&lt;li&gt;政策の機能&lt;/li&gt;
&lt;/ol&gt;
&lt;p&gt;です。順に見ていきます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-3/20260826234114.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;h3 id=&quot;1-メディア機能の自社所有&quot;&gt;(1) メディア機能の自社所有&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;2010年代に入ると、一部のVCは自社でメディアを持ち始めます。自らの言葉を増幅し、資金と人材を集めるためです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;第2回で見たとおり、日本で社会全体を一枚に描く地図は、官の外では出版と論壇の縮む市場で作られ、配信やサロンの時代になっても、代金を払うのは読者のままでした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;米国では、代金を読者ではなくVCが払う形が現れます。たとえばa16zは、「Future」という自前のメディアを立ち上げ、未来を語り始めます。Future自体は1年強で終わりましたが、その後もポッドキャストや出版物を大規模に運営し、自らの投資テーゼと一体の発信を続け、2025年には&lt;a href=&quot;https://a16z.com/what-is-new-media/&quot;&gt;New Media&lt;/a&gt;というイニシアチブを立ち上げています。そうして技術が社会をどう変えるかという一枚の絵がメディアを通じて配られ、その絵が出資者と人材を引き寄せます。集まった資本と人材が企業へ投じられ、社会を変える実弾としての企業群が生まれる、という流れです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;しかし通常のメディアと決定的に違う点が二つあります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;一つは、誰がお金を払っているかです。お金を払っているのは、広告主でもなく、読者でもなく、VC自身です。そのお金はファンドの運用益から来ます。そしてリターンは投資先の成功です。そのためにメディアでは投資先を宣伝したり、自社の思想の正しさの発信を行います。こうしたビジネスモデルを評して、かつてa16zの企業内アナリストだったベネディクト・エヴァンズは、「a16zは、VCビジネスによって収益を上げているメディア企業だ」と述べていました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もう一つは、誰に届けようとしているかです。VCが自社メディアで描く思想は読者にも届きますが、そこで終わりません。同じ未来像を繰り返して社会の前提にし、人材と投資案件を引き寄せ、さらに政府の判断に影響することまでを狙いに含みます。読者は、社会像の受け手であると同時に、いわば&lt;a href=&quot;https://takaumada.com/blog/far-from-silicon-valley/&quot;&gt;アベイラビリティ・カスケード&lt;/a&gt;の担い手として位置づけられます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;つまり、こうしたVCのメディアは、社会の見方を変え、自分たちと同じ思想を持つ起業家を成功させるための手段です。未来像を描く仕事とお金を配る仕事が、一部のVCという同じ組織の中に入り始めました。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id=&quot;2-シンクタンク機能の拡大&quot;&gt;(2) シンクタンク機能の拡大&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;2つ目が、シンクタンクの機能です。現在、a16zなど一部のVCは、投資テーゼとして技術の将来予想を公表しています。運用額が増えるにつれて、調査と発信に専任の人手を割く体力もついてきました。テクノロジーの分野に限れば、未来を描く仕事としてのシンクタンク機能が、こうしたVCへ統合されつつあると言ってよいでしょう。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;この動きは、運用規模が大きく、AI・防衛・エネルギー・バイオといった政策依存度の高い領域を扱う一部のVCで顕著です。たとえばGeneral Catalystは&lt;a href=&quot;https://www.generalcatalyst.com/gci&quot;&gt;General Catalyst Institute&lt;/a&gt;を設置し、ベンチャーキャピタルと政府をつなぐ組織だと公式に説明しています。Lux Capitalは国家安全保障やAIについて継続的に論考を出し、&lt;a href=&quot;https://www.luxcapital.com/content/protecting-americas-economic-security&quot;&gt;米国政府にOffice of Economic Defenseを設置するという具体的な政策案&lt;/a&gt;まで提示しました。また、DCVCは毎年&lt;a href=&quot;https://www.dcvc.com/news-insights/dcvc-publishes-the-2026-deep-tech-opportunities-report-back-to-fundamentals-in-an-age-of-exponential-change/&quot;&gt;Deep Tech Opportunities Report&lt;/a&gt;を発行しています。量子、エネルギー、製造、防衛などの領域で、将来どこに技術的・産業的な課題が生じるかを、国家競争力と結びつけて分析したレポートです。こちらはロビー活動というより、シンクタンクの調査・将来分析の機能に近い動きだと言えます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;a16zで言えば、(1)で見たメディアの機能と、このシンクタンクの機能を、同じ一つの投資会社が兼ねていることになります。従来は投資会社、調査会社、シンクタンク、ロビー団体が分担していた仕事を、いまは大型で政策依存度の高い一部VCが、投資会社のブランドの下で統合し、その規模を拡大しているということです。&lt;/p&gt;
&lt;h3 id=&quot;3-政策への反対と取り込み&quot;&gt;(3) 政策への反対と取り込み&lt;/h3&gt;
&lt;p&gt;これに加えて2010年代には、もう一つの変化がありました。政府との関係の組み替えです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;シリコンバレーの産業基盤は、戦後以来、連邦政府の研究資金と国防調達に支えられてきたことは、以前&lt;a href=&quot;https://takaumada.com/blog/startup-thought-2026/&quot;&gt;記事&lt;/a&gt;に書きました。その一方、強いリバタリアン的傾向もあり、政策を遠い問題、あるいは障害とみなす文化や、市場に委ねるからこそイノベーションが起こるという自己像は今でもあります。たとえば元Benchmarkのビル・ガーリーが「&lt;a href=&quot;https://www.youtube.com/watch?v=F9cO3-MLHOM&quot;&gt;シリコンバレーがこれほど成功している理由は、ワシントンD.C.からクソ遠い場所にあるからだ&lt;/a&gt;」と述べて喝采を浴びたのは2023年と、つい最近のことです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;ただし、2010年代にはこの複雑な関係が変わり始めます。まずビッグテックや暗号資産への規制をめぐる対立がワシントンとシリコンバレーの間で起こりました。この対立が、自由市場を重視してこうした領域へ投資する一部のVCに、政策決定へ関与する動機を与えました。たとえばa16zは、暗号資産規制について&lt;a href=&quot;https://a16z.com/wp-content/uploads/2021/10/Andreessen-Horowitz-Senate-Banking-Proposals.pdf&quot;&gt;政策提案を提出する&lt;/a&gt;など、ワシントンとの接点を増やしていきます。そしてそれまで民主党を支援してきた投資家の一部が、民主党政権の規制路線へ公然と反発するようにもなりました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;さらに一部のVCと投資家は、選挙資金の面でも動き始めます。たとえば2024年の選挙では、a16zが暗号資産業界のSuper PACへの大口の拠出者となりました。投資先に有利な規制環境を作ること自体が、投資活動の一部になりつつあります。2026年の中間選挙でも、暗号資産、AI、オンライン賭博といった業界が&lt;a href=&quot;https://jp.reuters.com/world/us/M5APJ5ZYCVOQPIMANLP42F3C6Q-2026-08-21/&quot;&gt;かなりの金額&lt;/a&gt;の拠出をしつつあります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして次に安全保障環境の変化です。防衛テックという波に乗り、VCやスタートアップは政府を大口の顧客に変えようとしています。国側も、&lt;a href=&quot;https://www.defense.gov/News/News-Stories/Article/Article/973315/diux-official-working-at-speed-of-business-to-bring-tech-to-warfighters/&quot;&gt;国防総省は2015年にDIUxを設け、民間技術を軍へ取り込む調達経路を整えました&lt;/a&gt;。そうして政府は規制する側であるだけでなく、VCやスタートアップの大口の顧客であり、構想を一緒に実行する相手にもなっていきました。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;加えて、2025年、a16zのパートナーだったスコット・クポールはアメリカ連邦政府の人事管理局の長官となったほか、元PayPal COOでありYammer の創業者かつVCのデビッド・サックスがAI・暗号資産担当長官、Palantirの顧問だったジェイコブ・ヘルバーグが経済成長・エネルギー・環境担当国務次官に就任するなど、第二次トランプ政権にはテック系の人材が多く入ります。シンクタンクの持っていた、リボルビングドアの機能までVCが持ち始めたということです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;このように、政府の規制を警戒する動きと、政府を顧客と捉える動きが、同時に強まったのが2010年代から2020年代でした。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-3/20260826234329.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;ものさし規範はテック業界の内輪から社会へ&quot;&gt;ものさし（規範）はテック業界の内輪から社会へ&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;こうした経路がそろった2020年代、大型で政策依存度の高い一部VCは、未来の予想だけでなく、思想を社会に向けて語り始めます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;たとえばa16zは2022年に「&lt;a href=&quot;https://a16z.com/investing-in-american-dynamism/&quot;&gt;Investing in American Dynamism&lt;/a&gt;」を掲げ、国益を支える企業への投資を一つの実践領域にしました。これは投資テーゼであると同時に、かつてシンクタンクが担っていた、政策のものさしを政策決定者へ届ける仕事でもあります。さらに2023年には、a16zのマーク・アンドリーセンが「&lt;a href=&quot;https://a16z.com/the-techno-optimist-manifesto/&quot;&gt;The Techno-Optimist Manifesto&lt;/a&gt;」を、2024年には「&lt;a href=&quot;https://a16z.com/the-little-tech-agenda/&quot;&gt;Little Tech Agenda&lt;/a&gt;」を発表します。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これらはテクノロジーと成長を善とみなし、技術的に強い米国を望ましいものとして掲げる文書です。投資先の予測に加えて、社会が何を望ましいとみなすべきかというものさしを提示する発信でもあります。資本側のものさしは、業界団体や個々の投資家を通じて語られる段階、投資会社がマニフェストを掲げる段階を経て、一部VCが常設のメディア・政策・調査機能を資金配分と統合し、社会へ継続的に配る段階へ進んだのです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-3/20260826234352.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;もっとも、資本が語る未来には構造的な制約もあります。VCのファンドには通常10年前後の年限があり、その期間のうちに投資先の株式を売却して、出資者に資金を返さなければなりません。つまりVCが賭けられるのは、10年程度で事業として立ち上がり、換金できる見込みのある未来に限られがちです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして(1)で見たとおり、こうしたVCの発信は投資テーゼと一体です。かつてのシンクタンクや未来学が描いた20〜30年後の青写真と比べると、資本が語る未来像は時間の幅が短く、株式の値上がりとして回収できるものへ偏ります。ものさしを語る声が資本へ集まるということは、社会が参照する未来像も、この制約のかかった未来像へ寄っていくということです。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-3/20260826234232.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そして振り返ってみれば、SFが描いていたのは、未来の像だけではありません。どの未来を望ましいとみなすかというものさしも、物語の中に織り込まれていました。たとえば米国のSFは、「今ここではないどこか」を目指す&lt;a href=&quot;https://takaumada.com/blog/startup-thought-2026/&quot;&gt;イグジットの思想&lt;/a&gt;の表現として、また&lt;a href=&quot;https://online.ucpress.edu/sfs/article-abstract/49/Part%201%20%28146%29/32/205553/Religion-Violence-and-Apocalypse-in-H-G-Wells&quot;&gt;キリスト教的な終末観を描く道具&lt;/a&gt;としても使われてきました。「空飛ぶクルマがほしかったのに、手に入れたのは140文字だ」という一節には、140文字で話すTwitterのようなB2C事業よりも空飛ぶクルマのほうが重要である、という規範が書き込まれています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;こうした文書が主に語りかけていた相手は、創業者や投資家という業界の内側でしたが、徐々にそれが米国全体、そして世界全体へと広がりつつあります。&lt;/p&gt;
&lt;h2 id=&quot;構想と資金の接続が権力に届くとき&quot;&gt;構想と資金の接続が権力に届くとき&lt;/h2&gt;
&lt;p&gt;ここまでの話を振り返ります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;第1回で見たとおり、明治に思想と資本が結ばれていたのは、思想を作る人と資金を動かす人が同じだったからです。現在は創業者側が「構想＋実行」を担い、VC側が「選択＋資金＋増幅」を担い、そして二者が人間関係と契約によって接続されることで、かつて兼務が果たした未来形成の機能が再構成されます。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;明治と現在のシリコンバレーに共通するのは、構想する役割と資金を動かす役割、そして実行する役割が、互いの判断を変えられる近さで結ばれていることです。しかし第1回の戦時期の節で見たとおり、思想と資本と事業がつながっていること自体は、その思想が望ましいことを保証しません。場合によっては、そこから戦争につながることもあります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そうした権力の集中が、いまの米国で起きていることの一端は、こう捉えられると考えています。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;今回は1970年代からの米国、特に未来の思想を語るプレイヤーの動きを見てきました。2010年代から2020年代にかけて、大型で政策依存度の高いVCの一群は、かつて国家、企業、シンクタンク、メディア、投資家に分かれていた機能のいくつかを、投資会社の下で自らの内部に統合しつつあります。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;そこから生まれた思想は、いま国境を越えて日本へも届くようになりました。事業の方法や市場の予測だけでなく、国家や統治や自由の意味までを含む思想が、この経路を通って入ってきています。そして&lt;a href=&quot;https://takaumada.com/blog/future-thought-japan-2026/&quot;&gt;以前の記事&lt;/a&gt;で見たとおり、受け取る側の日本には、入ってくる思想を測るものさしが十分にあるわけではありません。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;これに対してどのように対応していくかを考えていく必要があります。そのために日本で同時期にどういったことが思想と資本の関係の中で起こっていたのかを、日本のスタートアップを扱う第4回で見ることにします。&lt;/p&gt;
&lt;p&gt;&lt;img src=&quot;https://img.takaumada.com/blog/capital-and-thought-3/20260826234253.webp&quot; alt=&quot;&quot; width=&quot;600&quot;&gt;&lt;/p&gt;</content:encoded><dc:creator>馬田 隆明</dc:creator><category>思想と資本</category></item></channel></rss>